キリスト教哲学と科学論

偶像ばかりで鬱になるので、別の話題を(すべて繋がっているのだけど)。


稲垣久和という東京基督教大学教授の一つの論文のさらに一部を紹介。この記事のタイトルがその論文のタイトル。


 筆者はこれまで、いわゆる「科学と信仰」というテーマで科学知識を所有しているレベルの異なる様々な階層の人々に話をする機会が与えられました。その中で感じたことは、現代人にとって「科学という知のジャンル」はほとんど疑いをさしはさむ余地のない自明のことだ、ということでした。何も科学を職業上の仕事としている人だけでなく、一般民衆がそうなのです。
 現代人は、科学を相対化しうる視点をほとんど持ち合わせていないのです。



現代の文明国に生きる人々は、科学と科学の生み出したもの、科学的思考の中にどっぷりつかっているのです。これがまさに“文明”ということの意味なのでしょう。「科学という知のジャンル」に疑いをさしはさみ、これを相対化するためには、よほど強靱な思索力と自己反省の能力がなければ不可能なことです。そして私は様々なレベルの人々と対話する中で、人間の理論的な認識能力の中に、残念ながらこういう能力が備わってはいないと思うようになりました。



 しかし、私は、聖書が告げる神の言葉の宗教的根本動因は、それが与える根源的、爆発的な力のゆえに、科学の相対化を可能にするのではないかと思っています。また、もし可能でなければ、キリスト教という宗教は本当の意味で、現代人と現代文明に対する癒しと救済のパン種とはなり得ないでしょう。そして有神的人生観、世界観の樹立もあり得ないでしょう。

『福音主義神学』25号、1994、稲垣久和「キリスト教哲学と科学論」)

人間の現実−偶像礼拝(現代編)1

旧約時代の偶像は、金や石・木で作られた「刻んだ像」「鋳た像」だった。
新約時代の偶像は、「肖像」が刻印されたお金、つまり富だった(その視点でザアカイを読めるか?)。
そして、新旧共通した偶像礼拝の本質は、神を排除し、自分が神となり、自分の心の思うままを行う欲望だった。


注意してほしいのは、神を知らない異邦人が偶像礼拝を行ったのでなくて(当然行ってはいたが)、真の神を知っていたイスラエルの民、あるいは、キリストによって「イスラエルの民」とされたキリスト者が、偶像礼拝を行ったこと、また、そのことに注意するように、と命じられていること。

「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。」
(第一コリント 10:1-7)



ここでコリント教会にパウロが語っているのは、エジプトを出たイスラエルの民も、私たちキリスト者と同じようにバプテスマを受け、同じ御霊を受けたのにもかかわらず、偶像礼拝を行い、滅ぼされた、ということ。
当時のイスラエルがどうしようもなく愚かだったわけでなく、私たちと同じですよ、と言っている。そして、それはコリント教会だけでなく、現代のキリスト者にもそのまま当てはまる。




イスラエルの民が荒野で金の子牛を作ったとき、偶像を作ったという意識はなく、真の神を作ったと思っていたのだろう。
「彼ら(イスラエルの民)は『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言った」
出エジプト32:4b)


イスラエルがエジプトに居住していた期間は430年(出エ12:40)。その間に偶像礼拝が体に染み着いていたのだろうと思う。
そのイスラエルを、もう一度、真の神への礼拝者とすることが、出エジプトにおける神の大きな目的だった。
そのために、十戒をはじめとする律法を与え、神を礼拝する幕屋の設計図を与え、また祭司を立てたことが出エジプト記の後半に書かれ、実際の礼拝方法がレビ記に書かれている。


子羊の血によって罪の奴隷から解放された現代のキリスト者は、このことに対する自覚があるだろうか。。

人間の現実−偶像礼拝(現代編)序

今日届いた本の寄稿部分に、まさにこのテーマについて書いてあったので、短いが引用する。


聖書は、現実の人間を「神はいない」と主張し(詩篇14・1)、「神を忘れる者(同50・22)と診断しています。その結果はというと、「彼らの思いは地上のことだけ」(ピリピ3・19)となるのみでなく、同時に「不義をもって真理をはばむ」(ローマ1・18)状態に転落している。結局のところ、「彼らの神は彼ら(人間)の欲望」(ピリピ3・19)以外の何物でもないと断定しています。このような人間はいったいどのようになり、どこへ逢着するのでしょうか? 
(宇田進 『ヴァンティルの「十戒」』ヴァン・ティル著 「本稿出版に寄せて」より)


ヴァンティルの邦訳書が今これくらいしか手に入らないのは悲しい。

ヴァン・ティルの「十戒」

ヴァン・ティルの「十戒」

人間の現実−偶像礼拝(新約編)2

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3章5節)


前回、新約時代の偶像は「富」「貪欲」のような、目に見えない物としてあった、ということを書いた。
偶像とは何か、ということを旧約時代の偶像を思い浮かべて書くと、「神にとって代わるもの」と言うことが出来る。
人間は本来、神の栄光をあらわすものとして造られた。
もう少し具体的に言えば、神を礼拝し、神と交わりを持ち、神の命令に従い、神のために生きるものとして造られた。


それが堕罪後、人は神に背き、神ではなく自分を主とし、自分のために生き、自分の心の思うままを行うようになった。
人間中心主義、いわゆるヒューマニズムはローマのキケロとかセネカが作り出したものではなくて、カインの子孫にすでに見いだすことが出来る、ということを以前「カインの末裔と・・」という記事で書いた。


聖書の時代のさまざまな偶像も、現代の仏像や占いも、結局は人間の欲、自分の欲を満たすために作られている。
商売の神、受験の神、恋愛・結婚の神、交通安全の神。。。


さらに言えば、偶像礼拝は、性欲などの貪欲と結びついている。

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。
 娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。」
民数記25章1,2節)



性欲と食欲。これらも本来、神の栄光をあらわすために、祝福として与えられたものだけれど、それを汚すものとして用いるのが偶像礼拝。
コリント教会にも、偶像礼拝とともに、食事の問題・性的問題があったことが第一コリントに書かれているし、ローマ1章にも偶像礼拝と性的混乱が連続して描写されている。


。。偶像礼拝の本質というのは、人間の欲望・貪欲を満たしてくれる、神以外のもの、とも言える。
その意味で、人のそうした貪欲を満たすものがそのまま偶像礼拝と言うことが出来るし、その貪欲を満たすための道具の一つである「富」「お金」が偶像となる。


これは新約時代にも、また現代の私たちにも同じことが言える。


エスが何度も語っていることは、神を信じているなら、自分の生活のことで思い煩うな、ということ。何を食べるか、何を着るか、そういった衣食住のことは、神が養ってくれると。
神を知らない人が、生きるため、お金のために働くことは仕方がない。神を知らないのだから。
だけど、神を知っているキリスト者たちが、神を信じていると言いながら、未だにお金を稼ぐため、自分が生きるために、仕事をしているとするなら、それは実質で神を信じていないのと同じだ。


お金があれば、食べ物も、着る物も、家も買うことが出来る。細かく言えば、電気代も水道代も市民税もプロバイダ代も本代もDVDレンタル代も子供の習い事の月謝も払うことが出来る。
だから、お金が必要だし、より多くあれば、それにこしたことはない、と考える。
でも、反対に言えば、お金があれば、神になにかしてもらう必要はないということになる。
食べる物も着る物も、生活に必要なすべてのものは、神に与えてもらう必要はなく、お金があればいい。


現代のキリスト者が神を必要とするのは、死んだ後の保証と、漠然とした“導き”のためくらいじゃないだろうか。
進路や就職、結婚の“導き”。良い将来の“導き”。良い人間関係の“導き”。
そのために神に祈るなと言っているわけでなく、自分の幸せや欲を満たしてもらうために神に祈るなら、いや神を利用しているのであれば、それはこの世の偶像礼拝と動機はさほど変わらない、ということ。まだ真の神に祈っているだけましかと思うが。


「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。」(ピリピ2:21)



神によって買い取られたキリスト者は、お金のため・自分のためでなく、神を主として神のために生き、神の命令(「地を従わせよ」etc)を行うことにおいて、働くべきだと思う。




。。もう少し続きを書きます。

PS.リンク集を追加しました。徐々に追加します。
   それと余談ですが、反対意見なども気軽にコメントして下さい。
   悪質広告以外はすべて載せます。

人間の現実−偶像礼拝(新約編)1

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということは出来ません。」(マタイの福音書6章24節)

"No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or he will hold to one and despise the other. You cannot serve God and mammon." (Mat 6:24 NAS)



前回書いたように、新約聖書・特に福音書において、イスラエル人が偶像礼拝をしている気配は全くない。
それどころか、どちらかというと律法(旧約聖書に記された神の命令)を守るということにおいて誇りを持っていて、イエスに永遠の命について質問した人たちも、「自分は幼い頃から律法をすべて守っている」と律法厳守を自負していた。


。。イエスが山上で教えたように、律法の本来の意味を知っていたなら「幼いときから全て守っている」なんて言えるはずはなかったのだけど、とりあえず目に見える偶像礼拝をしていなかったことは確かだ。


それでは、旧約の時代、さんざん偶像礼拝を繰り返してきたイスラエルの民は、新約の時代には完全にそれから離れていたんだろうか。


新約聖書において、偶像と解釈出来るものがいくつかある。
一つは「カイザルのものはカイザルに」で有名なローマ皇帝
エスがこれを言ったときは、ローマが帝政になって第二代目のティベリウス。このときのデナリウス硬貨を、今もお金を払えば買うことも出来るけれど、この硬貨に記されているのは、ヒソプを持った祭司としての皇帝の肖像と「神の子ティベリウス」という刻印。これは当時ローマ皇帝が神であり、また祭司であることを示している。
もちろんイスラエルの民はそれを認めても崇めてもいなかったけれど、ローマ皇帝という偶像はあったことがわかる。


二つめは、一番はじめにあげた御言葉と関係がある。それは「富」という偶像。
下の英語の訳を見ると、この「富」の部分がmammonとなっている。
これは、原文のギリシア語がμαμωναというアラム語由来の言葉が使われているから。
英語をカタカナ表記すると「マモン」だけど、この言葉をイエスは偶像を意識して使ったのかも知れない。
なぜかと言うと、「富」というギリシア語はπλουτοsという言葉があって、新約で22回、マタイの福音書でも13章22節で使ってる。
ここで、聖書中ほとんど使われてない言葉を使って、「神に仕えながらマモンに仕えることは出来ない」とイエスが言ったのは、「富」を擬人化して、神との対比を明確にしようとしたからじゃないだろうか。


こう考えると、新約の時代においては、旧約とは違って、目に見える像・刻んだ像が偶像というより、目には見えない、あるいは見えづらいけれど、実質偶像の働きをしているものがあること、それを引き続き注意すべきことが語られているように思う。


「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3章5節)


「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(第一ヨハネ5章21節)





つづく。。

人間の現実−偶像礼拝(旧約編)

「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。
 もし主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」
(第一列王記18:21)



 上記は、預言者エリヤがイスラエルの民に語ったことば。


当時のイスラエルでは、アハブ王とその妻イゼベルの影響もあって、バアルやアシェラという偶像礼拝がさかんに行われていた。


。。イスラエル十戒のはじめで、非核三原則なみに偶像礼拝を禁止されているのに、何度も偶像礼拝を繰り返した。その記録が旧約聖書と言っても過言じゃないくらい。


以前、創世記のアダムからアブラハムまでの構造をここに紹介したときに、堕落(罪・悪)と回復(義・善)が交互に書かれていると紹介したけれど、旧約聖書全体にわたって、この構造がある − というか、単に人の愚かさの現実と、神の憐れみ深さが繰り返し書かれている、と言ったほうがいいかもしれない。


ノアの時代も「暴虐が地に満ち」て、神は地を水によって滅ぼしたけれど、それで人が良くなるだろうとは言わなかった。反対に、「人は初めから−幼いときから悪い」から人の悪を理由として地を滅ぼすことをやめる、とある。それでは根本的な解決にはならず、定期的に洪水を起こさなければならないから。


民数記には、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が、何度も神に救われながらも、つぶやき、不平を言って、偶像礼拝を行ったことが書かれている。そのために、エジプトを脱出したおそらく100万人以上の中で、約束の地に入ることが出来たのは、カレブとヨシュアの二人だけだった。


士師記には、約束の地に入ったあと、イスラエルに王が立つまでの時代が書かれているけれど、この時代も、イスラエルの悪 → 主の怒りによるさばき → 悔い改め → 平和 → イスラエルの悪 → さばき → 悔い改め → ・・・ の無限ループ。「いい加減学習しろ!」と思うほどの愚かさっぷり↓

「こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた」(士師3:7)
イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った」(同 4:1、6:1、13:1)



イスラエルが王制になり、外見はよかったが、信仰と知恵がなかったサウル王、そのサウル王にさんざん追い回された信仰の人ダビデ王、そして、その子知恵者ソロモン王と、この時代はまだ良かったけれど、ソロモンの死後、イスラエルが南北に分裂した後がひどい。
さんざん偶像礼拝をして、そのさばきとして、北イスラエルアッシリアに滅ぼされ、南ユダもバビロニアに捕囚となり、エルサレムは陥落する。
(何で偶像礼拝がそんなに悪いの?という人はホセア書を読めばわかるかも)


そのひどかった時代の預言者のひとりが、冒頭のエリヤ。


そんな時代のイスラエルの民も、完全に神を忘れていたわけじゃなかった。まことの神を礼拝しながら、偶像も礼拝していた。


。。エリヤの時代から、およそ3000年たった今、私たちキリスト者の状況はどうだろうか。
私たちは旧約聖書に書かれた愚かなイスラエルの民とは違うだろうか。
彼らもほんとうの神を知り、あるときには礼拝もささげる者たちだった。


確かに大戦下のように、神社参拝を強要されることはない。(積極的に参拝するキリスト者もいるがw)
地蔵や仏像など、偶像はたくさんあるが、キリスト者であればそれを拝むことはしない。
原始的で愚かな旧約のイスラエル人とは違って、現代の私たちはもはや偶像礼拝とは無縁なんだろうか。


イスラエルの民は、バビロン捕囚以後に徹底的に悔い改めて、それ以後偶像礼拝からは遠ざかったという。
たしかにバビロニアによる破壊−特にエルサレムの破壊は凄まじかった。その状況の悲惨さは、例えば哀歌を読むとよくわかる。
その原因となった偶像礼拝の罪を徹底的に悔い改める、ということはあっただろうし、福音書に見られる新約の時代においても、ユダヤ人が偶像礼拝を行ったという気配さえない。


それでは、捕囚後のイスラエルから新約の時代、さらには現代において、キリスト者は完全に偶像礼拝からは手を切ったんだろうか。


これは信仰二元論と信仰一元論の話しからの続きになっているのだけれど、わかりずらいかな。
次回は新約、そして現代編を書きます。

リンクなど

最近ネットで検索していると、案外同じようなこと書いてる人いるんだなぁ、というサイトがいくつかあったので、メモとして書いておく。


キリスト教世界観ネットワーク」
http://cwn.way-nifty.com/cwn/cat5918917/index.html


私もwebのことはよくわからないんだけど、ブログのフォーマット(?)使っているから、ちょっと見づらい。Devotion timeさんあたりにHPを作ってもらったら良くなりそう。
(ちなみにこのDevotion Timeの西原先生(theologiaはやめたのかな)の釈義はなかなか読みごたえあり
 http://theologia.blog21.fc2.com/blog-category-4.html )


で、この「世界観」サイトにも紹介されている「N.T.ライト読書会」というのがちょっと珍しい。
N.T.Wrightというのは、その世界ではかなり有名な新約学者。new perspectiveってゆう、簡単に言うと宗教改革時の義人論はパウロの義人論と違うんじゃない?(これであってるかな?)ということを主張する第一人者としても有名。
昔、CSルイスが、"Mere Christianity"(『キリスト教の精髄(世界)』)て本を出して、教派を超えた「キリスト教弁証論」みたいな本を出したけれど、まったく同じ趣旨で、最近"Simply Christian"という本を出した。
翻訳もがんばっているらしいので、ぜひこの本を翻訳してもらいたいと個人的には思う。


で、その提唱者のKoGf1さん(牧師先生の名前もわかりますが、ハンドル名がある場合、それを使います。失礼!)のブログに、「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」というタイトルがあったので、そこにコメント→返答、と、短いやりとりだったけど、誠実に回答いただき感謝だった。
http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/09/blog-post_05.html


最後はおまけのWikipedia。あてにならないと言われながらも閲覧者が多くなってるんじゃ。

自分も結構修正したけど、まだまだ修正してほしいところ、項目がないところたくさんある。
(たとえば「キリストの磔刑」が杭だった、なんて書かれてあったから、根拠を示して修正した)

ぜひよく知っている部分に関して、どんどん追加修正してほしい!
http://ja.wikipedia.org/wiki/Portal:%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99