近代思想と神学−デカルト

「ソフィー」のレビューの中で、デカルトについて少し書いたけれど、『方法序説』を読んだことのない人にもわかるように簡単に書いてみる。


デカルトは、はじめにすべてを疑ってみた。昔からの伝統・正しいと信じられてきたことだけでなく、自分が見て聞いて触れることが出来るものに関しても、それは偽ることのある「感覚」を通しているので、確かなものではない、つまり存在してないかも知れない、と疑った。確かに夢であれば、見聞きしている・感じていると思っていることは、すべて実在しない、ということになる。


でも、それを疑っている自分の存在は疑うことは出来ない、と考えた。たとえそれが夢であっても、その夢を見ている自分の存在は確かに在る、と考えることが出来るから。


デカルトはここから出発して、次に何が確かに在ると言えるかと考えた。
それは、意外に思うかもしれないが、神の存在だった。
その論理は、自分の中には完全という概念があり、自分は完全で無いことを知っている。
完全で無い自分から、完全という概念が生まれるはずはないので、完全な存在=神は存在する、という確信に至った。


デカルトはこの神の存在の確信を、自分はそうと確信したが、それは自分の確信だから、それを別に他の人に説得しようという気はない、というようなことも書いてあったと思う。


神の存在証明は本人も言っているように、あまり受け入れられていないというか、知られていないように思うけれど、
デカルトが近代の出発と言われるのは、こうして過去から受け継いできた信仰や伝統・権威を一度すべて廃して、自分の存在・人間理性を出発点として、もう一度すべてあるものを再構築しようとしたからだと思う。


これが、現在の私たちの考え方にも大きく影響している。
過去の記事で啓蒙思想のことについて書いたけれど、このデカルトの出発点−理性を出発点として、すべてを判断していく人間中心・自分中心的な世界観が私たちの価値観・世界観になっている。
自分が何をしたいか、自分はどう感じるか、自分がいいと思うか、悪いと思うか。


普段聖書を読んでいるキリスト者であっても、神のことばでなく、自分の理性に規定される生き方になっている。




  「初めに、神」  創世記1章1節a


  「初めに、ことばがあった」  ヨハネ1章1節a





(ソフィーのレビューの中で、理性によっては自己存在さえも確かとは言えない、ということを書いたが、それも少し解説。
映画「マトリックス」の主人公ネオの現実だと思っていた世界はコンピューターによって生み出された仮想現実だった、という譬えをデカルトの説明として以前した。その仮想現実は存在しなかったけれど、ネオの存在自体は確かにあった、というように。でも、私たちの側からすれば、ネオはもちろん存在せず、映画監督or作者という別の存在者が生み出した「思考」に過ぎない。自分は自分で考えている、と思っているが、それが第三者が生み出したものでないと、どうして言えるだろうか。本当に理性だけで考えるのであれば、この可能性は排除出来ない。)