聖書信仰とは何か

以前、ある主流派(リベラル派)の牧師が、
「私たちは聖書を信仰しているのでなく、神を信仰しているのだ!」
と、聖書信仰を批判していたことがあった。

その時にも答えたことだけれど、少し整理して書いてみようと思う。


まず先の発言の誤解を解いておくと、「聖書信仰」というとき、聖書を礼拝の対象とすることはない。
「聖書を偶像化して、礼拝の対象にしている」との勘違いがこの批判にはある。

広義の「聖書信仰」は、聖書を神のことばと信じる、という意味。
これはキリスト教と名のつくところであれば、正教会であれカトリック教会であれ
リベラルでさえ(建前は)それを信じている。

けれど、「聖書信仰」というときは「聖書は誤りのない神のことばであると信じること」というのが、その内容。
神には間違えがないのだから、神のことばにも間違えがない、と告白すること。これが聖書信仰の意味。

何を起点にして、聖書を受け取るか、とも言うことが出来る。
自分を起点にし、理性を起点にして、聖書を下から来たもの、人間から出たものと受け取るか、
神のことばを起点にし、聖書を上から(神から)来たもの、と受け取る(=聖書信仰)か。


このブログの啓蒙思想の聖書解釈への影響という記事の中で少し書いたけれど、18世紀に始まる啓蒙思想の影響によって、自由主義神学が生まれる。自由主義神学は、聖書を神のことばではないと断定し、その批判をうまくかわしつつ新しい神学を生み出したのが新正統主義(ブルトマンやバルト)。この新しい神学は、聖書をある意味で神のことばであるとした(ブルトマンは聖書の非理性的部分=神話を分離し実存的に理解、バルトは客観的な神のことばでなく、出会いの中で神のことばになると考えた)。

啓蒙思想自由主義神学新正統主義と列挙したが、その背景にあるものを宇田進は7つ挙げているので、簡潔に紹介する。

1) デカルトの人間理性による自立−理性に障害となるキリスト教の超理性的要素を排除
 「理性が分配されているので、これを正しく導きさえすれば、すべての人は何が真であるかを知って真理に到達できる」
 「私がきわめて明瞭に、きわめて判明に知覚するものはすべて真である」

2) ガリレオ以後の近代科学こそ、物事に対する確実な回答を与えるもの、聖書がその結果と衝突する場合には、科学に権利を譲るべきと考えた。

3) 人間中心主義的な世界観による歴史主義が提唱、超自然的要素の信憑性に疑問を付す。

4) 啓蒙思想の一面をなす批判精神は、聖書を含む古文書を無条件に理性的批判の検察に委ねた。

5) 『賢人ナータン』(レッシング,1779)でキリスト教の絶対性を否定し、寛容の態度こそ宗教上の最高の徳とした。

6) 『普遍的理性の進歩に関する考察』(サン・ピエール,1787)で人類は進歩の道をたどると表現。

7) 『純粋理性批判』(カント,1787)の「信仰に場所を与えるために知識を破棄」−信仰と理性を区別(近代思想と神学参照)。
                             (『福音主義キリスト教福音派』p.126,7)


これらの時代の流れを受けて、聖書は人間の思想の寄せ集めと考えられるようになり、当然いろいろな矛盾があり、歴史的な出来事とは関係のないもの、と考えられるようになる。そして、それでもなおかつ霊的、精神的意味で聖書は神のことばなのだ、と主張されるようになった。

このような聖書観に反対する意味で「聖書は誤りのない神のことばである」、と信じ告白する立場を聖書信仰という。
その内容は、『ゲノムと聖書』批判(2)の最後にあげた「シカゴ声明」も参考になると思う。


先に挙げたリベラルの牧師にも答えたけれど、聖書に誤りがあるなら、どのようにして神を知ることが出来るだろうか。
(そもそも誤りの有無を問題にしていないが、誤っているという前提に立っている)
自分の中で“訂正した聖書”の神は、もはや神ではなくて、自分が作り出した神ではないだろうか。


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少し簡単に書きすぎたので、少し訂正・追加する(このテーマはかなり奥が深いので、少しずつ編集していこうと思う)。


先に書いたとおり、現代思想から生まれた自由主義神学は、聖書を昔の人々の信仰の表明以上の何物でもないと考え、その内容が事実でないとしても、自分たちの信仰には影響はないと考えている(それを誇りにさえしている)。
例えば、第二テモテはパウロが書いたものでないと考えているし、第二ペテロもペテロが書いたものではないと考えている。それぞれ「パウロから」あるいは「ペテロから」と著者が書かれているのにもかかわらずである。
このことに始まって、最もラディカルな人は、イエスの奇跡だけでなく、処女降誕も、復活も、イエスが神であることさえ信じていない(そのような牧師さえいる)。
(聖書は律法を重んじるユダヤ人によって書かれたということを見逃している。十戒のひとつにもあるように、「偽りの証言をしてはならない」と律法に規定されている。)

何故このようなことがあり得るのか、というと学問−現代思想の下にある学問の成果を無批判に神学に取り入れたこと、だと思う。
神学者にとっては「哲学は神学の婢女」であるべきだったのに、その立場が逆転し、その時代の哲学(=諸学問)によって神学を構築してしまった。これが自然神学であると思う。

その結果どうなったかと言うと、聖書の歴史と自分たちの歴史は繋がりがない−霊的な意味、救いの面だけに神のことばを限定してしまった。

そして、自分たちの日常生活と神のことばは直接関係のないものとなってしまった。自分の価値観、世界観は、聖書から形作られるのでなく、この世界から教えられ、形づくられてしまっている。

これはリベラル・主流派と呼ばれる人たちだけの問題でなく、保守・福音派も同様である
(以前書いたキリスト者の世界観を参照)。

以下は主要な保守派教会の信仰告白、第一項目

JECA

聖書は、旧新約六十六巻からなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。聖書は、神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と生活の唯一絶対の規範である。

日本同盟基督教団

旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。

日本福音自由教会

新約聖書を原典において何ら誤りなき、霊感された神の言であり、人間の救いについて神のみこころを完全に啓示し、すべてのキリスト者の信仰と生活の神的、究極の権威であることを信じる。

日本基督教団(様々な立場があるが、信仰告白は以下のとおり)

新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証(あかし)し、福音の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひ(い)につきて、全き知識を我らに与ふ(う)る神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

以上のように、信仰だけでなく、生活の規範・権威である。


キリスト教書店には自分の主張を聖書の言葉で補強しているだけのような本がたくさんあるけれど、なぜ聖書そのものが語っていることには多くのクリスチャンは聞こうとしないのだろうか。
それは、ただ聖書を読めばいいという意味ではなく、聖書の主張を正しく解き明かしている本を読み、また、正しく語られている説教を聞くべきだと思う。



。。とりあえずここまで。後で修正追加する。