『ゲノムと聖書』批判(2)

あるとき進化論についてネット上で議論していたとき、私が「進化論が信仰ではないという証拠を出してください」と聞くと、それまでの勢い(進化論擁護の書き込み)がなくなったことを覚えている。
日本人の大半が進化論を当然の事実として受け入れているだろうけれど、何を根拠にしているか、と言われると「そう教えられたから」「NHK・テレビでそう言っているから」「あたりまえだから」と、それを検証したことがない人がほとんどだと思う。
絶対基準のない人にとって、それは仕方のないことだとも思うが、聖書を神のことばと信じるクリスチャン、特に、誤りのない神のことばと信じる保守派・福音派のクリスチャン、さらにはその牧師までもが、この『ゲノムと聖書』のような本に「教えられ」て、進化論による生物発生の世界観を持ってしまうことが本当に悲しく思う。
ちなみに、意外に思われるかも知れないが、ネット上で議論していた中でクリスチャンでない人たちの中に、進化論は信用できないと考える人が少なくなかった。雑誌『ニュートン』を創り、亡くなるまで編集長だった竹内均もそのような反進化論者だった。

。。前置きが長くなったが、『ゲノムと聖書』を引用しつつ検証する。

科学的理解が現時点で欠けている箇所に、神の介入による特定の業を挿入しようとするときにはよく気をつけた方がいい。(p91)

この文は、生命発生について、現代科学ではっきりしたことは何もわかっていない、という文脈の中で、しかし、それだからといって、神を持ち出さない方がいい、と言っている。
おそらくコリンズは、以前ジェームス・キャメロン出エジプトの10の奇跡と海を分けた奇跡を、「神の介入による特定の業」でなく、自然現象で説明したCGドラマを喜んで観たひとりだろうw
エリヤの天からの火も、ヒゼキヤのために日時計の影が逆行したことも、そして、イエスが処女で生まれ、死んで三日後に復活したことも、「神の介入による特定の業」かどうか、よく気をつけて、科学が説明してくれるまで、それは神の特定の業であるかを保留すべきなのか?!

イスラエルの民が神の幾たびの奇跡に救われながら、神を信じようとしないことに、神は次のように語っています。

「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」(民数記14章22、23節)

今、"The Christian Atheist: Believing in God but Living As If He Doesn't Exist"という本(訳すと『無神論クリスチャン』『神を信じないクリスチャン』という感じ)を読んでいるけれど、毎週教会で「我は全能の父なる神を信ず」と唱えているクリスチャンでさえ、実質は全能の神を信じていない、神がいわゆる「科学法則」を超える方であると信じていない、別の言い方では「主は生きておられる」ということを、信じていないのではないかと思う。

以下に「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の一つを引用する。

十二 聖書はその全体において無誤であり、偽りや虚偽や欺きが一切ない、とわれわれは主張する。

 聖書の無謬性と無誤性は、聖書中の霊的、宗教的、救済的な事柄に限定されるものであって、歴史や科学の分野にかかわる記述は除かれるという考えをわれわれは否定する。また、創造や洪水に関する聖書の教えをくつがえすために、地球の歴史に関する科学的仮説を用いることは正当化される、という考えも否定する。(『福音主義キリスト教福音派』宇田進、1984、p258)

。。一般の人はもちろんこういったシカゴ声明も、私が書いていることも受け入れることは出来ず「ああカルトか」ぐらいに思うだろうけれど、保守派・福音派を自称する人・特にその教会に属する牧師は、もう一度このことをよく考えてもらいたい。