歴史的アダム(1)[聖書][創世記]

"Four Views on the Historical Adam" という本が2013年に出た。日本語に訳すなら「歴史的アダムに対する4つの見解」といったところか。
この本は一種のシリーズ本のひとつで、4人の異なった立場の人たちが、それぞれ自分の主張を述べ、その後で別の立場である3人の人たちがそれに対して(反対)意見や感想を述べる。そしてさらに最後にはじめの著者がその反対意見などに対してコメントする、という形の4部構成になっている。

この本のレビューを書く前に、それと直接は関係ないがアダムの系図について簡単にまとめておこうと思う。

アダムの系図については創世記5章に書かれている。

エクセルでその系図をまとめたが、ここに載せ方がわからないので、以下に簡単にまとめる。

アダム  130歳の時、セツ   誕生。 930歳で死ぬ。 (930 年目)
セツ   105歳の時、エノシュ 誕生。 912歳で死ぬ。 (1042年目)
エノシュ  90歳の時、ケナン  誕生。 905歳で死ぬ。 (1140年目)
ケナン   70歳の時、マハラレル誕生。 910歳で死ぬ。 (1235年目)
マハラレル 65歳の時、エレデ  誕生。 895歳で死ぬ。 (1290年目)
エレデ  162歳の時、エノク  誕生。 962歳で死ぬ。 (1422年目)
エノク   65歳の時、メトシェラ誕生。 365歳でいなくなる。(987年目)
メトシェラ187歳の時、レメク  誕生。 969歳で死ぬ。 (1656年目)
レメク  182歳の時、ノア   誕生。 777歳で死ぬ。 (1646年目)
ノア   500歳の時、セム・ハム・ヤペテ誕生。600歳の時、洪水(1656年目)


この系図からわかること;

1) この系図内で、はじめて死んだのはアダム(930年目)。その後ノアが生まれる。

2) アダムが死んだのは、ノアの父であるレメク(9代目)の時代。つまり、アダムは子(セツ)、孫(エノシュ)、曾孫(ケナン)、玄孫(マハラレル)、来孫(エレデ)、昆孫(こんそん)(エノク)、仍孫(じょうそん)(メトシェラ)、雲孫(うんそん)(レメク)と一緒に、現代アメリカならサンクスギビングを過ごしたことだろう。

3) 洪水が起こったのが1656年目、この系図でノア以外、最後までいたのがメトシェラで、彼は1656年で死んでいる。洪水で死んだとも考えられるが、神がこのメトシェラの死まで洪水を待っていたとも考えられる。

4) 創世記はモーセが当時のイスラエルにわかるように書き記しているため、年代は太陰暦に基づいている。つまり、現代の年代の換算法とさほどかわりない。
もし無理に現代の寿命に合わせ、十分の1にするなら、ケナン、マハラレル、エノクは6才、又は7才で子どもをもうけている計算になる。

5) この系図には、それぞれ名前の記されている子とは別に「息子たち」「娘たち」が生まれていることが書かれている。
複数形なので、二人以上であれば、たとえ1000人であっても「息子たち」であるので、正確な人口はわからないが、最小人数である二人としてアダムの存命中に人口が何人になるかを計算してみる。

※ 計算方法:アダムの子ども=カイン・アベル・セツ・その他息子2人、娘2人の7名。平均7名の子どもが生まれ、そこから3組のカップルが出来ると仮定した場合。

2代目(2人(アダム・エバ)+7人(子ども))=9人
3代目(2+7+21(三組のカップルが7人ずつ子どもを生む))=30人
4代目(2+7+21+70(十組のカップルが7人ずつ子どもを))=91人
5代目(2+7+21+70+245(35組の。。。。。。。。。。。))=315人
6代目(2+7+21+70+245+854)=1099人
7代目(2+7+21+70+245+854+2989)=3843人
8代目(2+7+21+70+245+854+2989+10458)=13447人
9代目(2+7+21+70+245+854+2989+10458+36603)=47601人


アダムが死ぬときの人口は、最小に見積もっても5万人弱。
ちなみに、「息子たち」「娘たち」がそれぞれ10人だった場合、9代目の人口は、670071674人。7億人近い人口になる。
聖書の矛盾として「カインの妻はどこから来たか」という問をたまに見るが、この長寿の時代を考えれば、妻を探すことはそう難しくなかっただろう。

聖書信仰とは何か

以前、ある主流派(リベラル派)の牧師が、
「私たちは聖書を信仰しているのでなく、神を信仰しているのだ!」
と、聖書信仰を批判していたことがあった。

その時にも答えたことだけれど、少し整理して書いてみようと思う。


まず先の発言の誤解を解いておくと、「聖書信仰」というとき、聖書を礼拝の対象とすることはない。
「聖書を偶像化して、礼拝の対象にしている」との勘違いがこの批判にはある。

広義の「聖書信仰」は、聖書を神のことばと信じる、という意味。
これはキリスト教と名のつくところであれば、正教会であれカトリック教会であれ
リベラルでさえ(建前は)それを信じている。

けれど、「聖書信仰」というときは「聖書は誤りのない神のことばであると信じること」というのが、その内容。
神には間違えがないのだから、神のことばにも間違えがない、と告白すること。これが聖書信仰の意味。

何を起点にして、聖書を受け取るか、とも言うことが出来る。
自分を起点にし、理性を起点にして、聖書を下から来たもの、人間から出たものと受け取るか、
神のことばを起点にし、聖書を上から(神から)来たもの、と受け取る(=聖書信仰)か。


このブログの啓蒙思想の聖書解釈への影響という記事の中で少し書いたけれど、18世紀に始まる啓蒙思想の影響によって、自由主義神学が生まれる。自由主義神学は、聖書を神のことばではないと断定し、その批判をうまくかわしつつ新しい神学を生み出したのが新正統主義(ブルトマンやバルト)。この新しい神学は、聖書をある意味で神のことばであるとした(ブルトマンは聖書の非理性的部分=神話を分離し実存的に理解、バルトは客観的な神のことばでなく、出会いの中で神のことばになると考えた)。

啓蒙思想自由主義神学新正統主義と列挙したが、その背景にあるものを宇田進は7つ挙げているので、簡潔に紹介する。

1) デカルトの人間理性による自立−理性に障害となるキリスト教の超理性的要素を排除
 「理性が分配されているので、これを正しく導きさえすれば、すべての人は何が真であるかを知って真理に到達できる」
 「私がきわめて明瞭に、きわめて判明に知覚するものはすべて真である」

2) ガリレオ以後の近代科学こそ、物事に対する確実な回答を与えるもの、聖書がその結果と衝突する場合には、科学に権利を譲るべきと考えた。

3) 人間中心主義的な世界観による歴史主義が提唱、超自然的要素の信憑性に疑問を付す。

4) 啓蒙思想の一面をなす批判精神は、聖書を含む古文書を無条件に理性的批判の検察に委ねた。

5) 『賢人ナータン』(レッシング,1779)でキリスト教の絶対性を否定し、寛容の態度こそ宗教上の最高の徳とした。

6) 『普遍的理性の進歩に関する考察』(サン・ピエール,1787)で人類は進歩の道をたどると表現。

7) 『純粋理性批判』(カント,1787)の「信仰に場所を与えるために知識を破棄」−信仰と理性を区別(近代思想と神学参照)。
                             (『福音主義キリスト教福音派』p.126,7)


これらの時代の流れを受けて、聖書は人間の思想の寄せ集めと考えられるようになり、当然いろいろな矛盾があり、歴史的な出来事とは関係のないもの、と考えられるようになる。そして、それでもなおかつ霊的、精神的意味で聖書は神のことばなのだ、と主張されるようになった。

このような聖書観に反対する意味で「聖書は誤りのない神のことばである」、と信じ告白する立場を聖書信仰という。
その内容は、『ゲノムと聖書』批判(2)の最後にあげた「シカゴ声明」も参考になると思う。


先に挙げたリベラルの牧師にも答えたけれど、聖書に誤りがあるなら、どのようにして神を知ることが出来るだろうか。
(そもそも誤りの有無を問題にしていないが、誤っているという前提に立っている)
自分の中で“訂正した聖書”の神は、もはや神ではなくて、自分が作り出した神ではないだろうか。


*******


少し簡単に書きすぎたので、少し訂正・追加する(このテーマはかなり奥が深いので、少しずつ編集していこうと思う)。


先に書いたとおり、現代思想から生まれた自由主義神学は、聖書を昔の人々の信仰の表明以上の何物でもないと考え、その内容が事実でないとしても、自分たちの信仰には影響はないと考えている(それを誇りにさえしている)。
例えば、第二テモテはパウロが書いたものでないと考えているし、第二ペテロもペテロが書いたものではないと考えている。それぞれ「パウロから」あるいは「ペテロから」と著者が書かれているのにもかかわらずである。
このことに始まって、最もラディカルな人は、イエスの奇跡だけでなく、処女降誕も、復活も、イエスが神であることさえ信じていない(そのような牧師さえいる)。
(聖書は律法を重んじるユダヤ人によって書かれたということを見逃している。十戒のひとつにもあるように、「偽りの証言をしてはならない」と律法に規定されている。)

何故このようなことがあり得るのか、というと学問−現代思想の下にある学問の成果を無批判に神学に取り入れたこと、だと思う。
神学者にとっては「哲学は神学の婢女」であるべきだったのに、その立場が逆転し、その時代の哲学(=諸学問)によって神学を構築してしまった。これが自然神学であると思う。

その結果どうなったかと言うと、聖書の歴史と自分たちの歴史は繋がりがない−霊的な意味、救いの面だけに神のことばを限定してしまった。

そして、自分たちの日常生活と神のことばは直接関係のないものとなってしまった。自分の価値観、世界観は、聖書から形作られるのでなく、この世界から教えられ、形づくられてしまっている。

これはリベラル・主流派と呼ばれる人たちだけの問題でなく、保守・福音派も同様である
(以前書いたキリスト者の世界観を参照)。

以下は主要な保守派教会の信仰告白、第一項目

JECA

聖書は、旧新約六十六巻からなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。聖書は、神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と生活の唯一絶対の規範である。

日本同盟基督教団

旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕わし、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。

日本福音自由教会

新約聖書を原典において何ら誤りなき、霊感された神の言であり、人間の救いについて神のみこころを完全に啓示し、すべてのキリスト者の信仰と生活の神的、究極の権威であることを信じる。

日本基督教団(様々な立場があるが、信仰告白は以下のとおり)

新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証(あかし)し、福音の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひ(い)につきて、全き知識を我らに与ふ(う)る神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

以上のように、信仰だけでなく、生活の規範・権威である。


キリスト教書店には自分の主張を聖書の言葉で補強しているだけのような本がたくさんあるけれど、なぜ聖書そのものが語っていることには多くのクリスチャンは聞こうとしないのだろうか。
それは、ただ聖書を読めばいいという意味ではなく、聖書の主張を正しく解き明かしている本を読み、また、正しく語られている説教を聞くべきだと思う。



。。とりあえずここまで。後で修正追加する。

ルペルト神父への手紙

以下はファイヤアーベントがルペルト神父宛てに書いた、現代のカトリック教会と科学に関しての書簡。


ルペルト神父殿

 先日の木曜日のあなたのお話は、興味深く聞かせていただきました。私は二つの点で驚かされました。その一つは、<教会>が現在、科学の諸成果の面前で退却しつつある、そのスピードです。この現象は科学の内部には存在しません(ここにさえ多くの日和見主義は存在しますが)。ある科学的観点が誤りであることが示されながら、その擁護者はあきらめず、何十年も、あるいは何世紀さえも、それを追求しつづけるということは、頻繁に起こります。しかも、しばしば彼らが正しいことが明らかになりもするのです。原子論はその一例です。それは頻繁に「反駁」されましたが、いつも復帰し、それを打倒した者たちを打倒しました。十九世紀の末、大陸の物理学者たちはそれを形而上学的な怪物と見なしていました。その理論は事実と衝突し、内的にも首尾一貫していなかったのです。それでもなお、擁護者たち(その中にはボルツマンとアインシュタインが含まれます)はあくまで固執し、最終的にそれを勝利に導きました。さて、反駁された見解を手放さずに擁護することが科学の内部で合法的であり、そのようなやり方が科学的進歩に導くこともあるのであれば、なぜ<教会>は同じことを外部から行うのを躊躇するのでしょうか。というのも、状況は実によく似ているからです。



 ここで簡単に説明しておく。ファイヤアーベントは特定の科学理論を念頭に置いて語っているのかはわからないが、例えば進化論を例に考えるとわかりやすい。
 科学者でさえ、「反駁された見解を手放さずに擁護する」のに、教会は“科学的”でない、ということから何故簡単に自分たちの信仰を放棄してしまうのか、ということ。
 世界のはじまり、動植物の創造、人の創造、また人の死について、聖書が明確に語ることを“科学的でない”・”進化理論にあわない”ということから、なぜ教会は簡単に放棄してしまうのか、ということです。


<教会>の教義に対する科学の最初の攻撃の一つは、宇宙の始まりに反対するアリストテレスの論証に基礎をおいていました。これらの論証は、現代宇宙論の論証と多くの共通点を持っていました。つまり、それは高度に確証された既知の自然法則と、そこからの推理とに基づいていたのです。アリストテレスのずっと後まで、私たちが知っている物質世界の永続性は、科学の基本的事実と見なされていました。そして、その後で、科学は変わりました。今日では、時間的な始まりを仮定し、世界の最初の数分の間の複雑な「天地創造」を導く、無数の世界モデルが存在します。ですから、科学の実践を指摘しても、<教会>の恐怖心の、とは言いませんが、抑制の弁解にはならないのです。この抑制は純然たるイデオロギーに基づいています。この点は第二の論点を導きます。

 問題となるのは特定の物理学や宇宙論というより、むしろ人間と神との関係である、とあなたはおっしゃいました。この関係は愛と多くの共通性を持つ、ともおっしゃいました。さて、田舎の愛は都会の愛とは異なりますし、また愛がほとんど不可能な状況も存在します。例えば、「客観性」を主張し続ける人々、つまり科学の精神に完全にしたがって生きている人々にとって、愛は不可能になります。科学は客観性を奨励し、要求さえします。そうすることで科学は、きわめて知的な愛し方以外の私たちの愛する能力を弱めてしまうのです。このことは、愛を広めようと望む人にとっても科学が無視できないことを意味します。彼(女)は科学を取り上げ、その特有の傾向と闘わねばならないのです。


 学生のころ、私は科学をあがめ、宗教をあざけり、しかもそうすることをたいへん立派なことと感じていました。いま事柄をいっそう間近に見て、私や私の友人たちがかつて用いた浅薄な論証を、いかに多くの<教会>の高僧たちが真剣に受け止めているか、またそれに応じて自分の信仰を弱めようとする何たる覚悟をしているかを知り、私は驚いています。この点、この方々は科学自体を一つの<教会>、まだ人々が絶対確実な結論を信じていた頃の、原始的な哲学を持つ初期の<教会>にすぎませんが、そのような<教会>を形成するもののごとく扱っています。しかし、科学の歴史を一瞥してみれば、まったく別の光景が見られるのです。

 ご多幸をお祈り致します。

                    パウル・ファイヤアーベント

(『理性よさらば』p.317ff)



理性よ、さらば (叢書・ウニベルシタス)

理性よ、さらば (叢書・ウニベルシタス)

近代思想と神学−カント

ついでといったら何だけど、本の引用でカントの影響を少し紹介。
以下の考えを近代神学は受け入れ、キリスト教会主流派(リベラル派)ではほぼすべての人が、保守派・福音派を自称する人でさえもたぶん半数−つまりはキリスト者の8割以上?−がこういった考えを持っているんじゃないだろうか。


近代人は、科学の成立する領域と宗教的真理の領域は異なる領域だと考えている。科学と宗教の対立は、これを同一の領域に並べようとするところから生じるのであって、それぞれ別々の領域に成立するものであると考えれば別に矛盾は起こらないというふうに考える。



私は信仰に場所を空けるために知識を制限したとカントは言う。この有名な短い言葉の中に、知識や認識の成立する世界と信仰や道徳の世界とは、異なる世界だということが言われており、近代人や現代人は、たしかに、このようなことを当然のこととして前提しているということができる。だから、聖書の出来事の歴史的事実性というようなことに疑義が生じても、それは別に信仰を傷つけるものではないというように考える。
前者は、事実の領域、科学の領域、自然の領域であり、後者は価値の領域、道徳や宗教の領域、自由の領域である。今日の事実と真実の区別というような議論もこのようなカント的二元論を前提にする近代的思惟の枠組の中にあると言い得る。

(共に『哲学と神学』p.259)




哲学と神学 (関西学院大学研究叢書 (第50篇))

哲学と神学 (関西学院大学研究叢書 (第50篇))


近代思想と神学−デカルト

「ソフィー」のレビューの中で、デカルトについて少し書いたけれど、『方法序説』を読んだことのない人にもわかるように簡単に書いてみる。


デカルトは、はじめにすべてを疑ってみた。昔からの伝統・正しいと信じられてきたことだけでなく、自分が見て聞いて触れることが出来るものに関しても、それは偽ることのある「感覚」を通しているので、確かなものではない、つまり存在してないかも知れない、と疑った。確かに夢であれば、見聞きしている・感じていると思っていることは、すべて実在しない、ということになる。


でも、それを疑っている自分の存在は疑うことは出来ない、と考えた。たとえそれが夢であっても、その夢を見ている自分の存在は確かに在る、と考えることが出来るから。


デカルトはここから出発して、次に何が確かに在ると言えるかと考えた。
それは、意外に思うかもしれないが、神の存在だった。
その論理は、自分の中には完全という概念があり、自分は完全で無いことを知っている。
完全で無い自分から、完全という概念が生まれるはずはないので、完全な存在=神は存在する、という確信に至った。


デカルトはこの神の存在の確信を、自分はそうと確信したが、それは自分の確信だから、それを別に他の人に説得しようという気はない、というようなことも書いてあったと思う。


神の存在証明は本人も言っているように、あまり受け入れられていないというか、知られていないように思うけれど、
デカルトが近代の出発と言われるのは、こうして過去から受け継いできた信仰や伝統・権威を一度すべて廃して、自分の存在・人間理性を出発点として、もう一度すべてあるものを再構築しようとしたからだと思う。


これが、現在の私たちの考え方にも大きく影響している。
過去の記事で啓蒙思想のことについて書いたけれど、このデカルトの出発点−理性を出発点として、すべてを判断していく人間中心・自分中心的な世界観が私たちの価値観・世界観になっている。
自分が何をしたいか、自分はどう感じるか、自分がいいと思うか、悪いと思うか。


普段聖書を読んでいるキリスト者であっても、神のことばでなく、自分の理性に規定される生き方になっている。




  「初めに、神」  創世記1章1節a


  「初めに、ことばがあった」  ヨハネ1章1節a





(ソフィーのレビューの中で、理性によっては自己存在さえも確かとは言えない、ということを書いたが、それも少し解説。
映画「マトリックス」の主人公ネオの現実だと思っていた世界はコンピューターによって生み出された仮想現実だった、という譬えをデカルトの説明として以前した。その仮想現実は存在しなかったけれど、ネオの存在自体は確かにあった、というように。でも、私たちの側からすれば、ネオはもちろん存在せず、映画監督or作者という別の存在者が生み出した「思考」に過ぎない。自分は自分で考えている、と思っているが、それが第三者が生み出したものでないと、どうして言えるだろうか。本当に理性だけで考えるのであれば、この可能性は排除出来ない。)

今読んでいるもの

今読んでいる本もメモしておく。
前回レビューを書いた『ソフィーの世界』は万人受けするものだと思うし、誰が読んでも面白いと思うけれど、以下に挙げる本は自分の関心分野のものなので、本当に自分のメモとなるだけの価値しかないかも。


これは本のタイトルそのまま。現代科学論においておさえておくべき本が村上陽一郎をはじめとする7名によって紹介されている本。
序にあたる「編集にあたって」のところにその選定基準が書かれているのだけれど、まず「『科学』とは何か」ということころから書いていてとても面白い。
この本が紹介する12冊は以下の通り。

ホワイトヘッド『科学と近代世界』
バシュラール『否定の哲学』
シュレーディンガー『生命とは何か』
マンハイムイデオロギーユートピア
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論功』
ポパー『推測と反駁』
ハンソン『科学的発見のパターン』
クーン『科学革命の構造』
ファイヤアーベント『方法への挑戦』
サックレー『原子と諸力』
大森荘蔵『物と心』
広重 徹『科学の社会史』



上の著者の一人にもあげられているファイヤアーベント。
共約可能・不可能性−科学は累積し進歩していると言えるかということ−の部分に関心があり読んでいる。もちろんファイヤアーベントの結論は「進歩しない」ということだけれど、それを科学信仰を持つ一般現代人にどう分かり易く説明出来るだろうか。

“サイエンス・ウォーズ”というのは、科学哲学者vs科学者の戦いのこと。
日本ではあまり知られていないけれど、科学哲学者たちが「科学は絶対じゃない」「科学は信仰にすぎない」なんて言うもんだから(そしてそれは事実だけれど)科学者たちが「そんなことはない!」と、反撃に出たこと。


以上は科学哲学に関するもの。
以下は自然神学に関して。

マクグラス著の自然神学の本。彼は他の本にもちょくちょく自然神学には力を入れて書いていた。
マクグラスは確か生物学と歴史神学の専門だったので、この2つの分野−科学と歴史にはとても強い。
その得意分野を生かして自然神学を構築しようとする。でもこれは証拠的弁証法で、宣教の課題−接触点の問題としてとても強力だとは思うけれど、結局その方法論自体を聖書は支持しない、と自分は思う(この文章は牧師くらいしかわからないかな?)。

この本だけまだ手元にない..orz
改革派の立場からマクグラスのような自然神学を肯定する立場に反対した本だと思われる。
もう二週間くらい前に頼んだと思うんだけど、もしかして船便?


(追記2010.10.20)
"The Reformed Objection to Natural Theology"が今日届いた。ちゃんとair mailだったけど遅れたのは宛名が文字化けしてたからか。住所だけでイギリスからちゃんと届いた^^;
で、この本はレビューも読まずに買ったので、その書名からまさに改革派からの自然神学反対の本かと思ったら、どうやらその逆で、改革派の自然神学反対に反対する本−ようは自然神学賛成の本らしい。
どちらにしても論点が参考になるだろう。

『ソフィーの世界』

このブログの主旨からはずれるのだけれど、本の紹介をメモがわりに残しておく。


。。3,4年前にブックオフで100円で買った『ソフィーの世界』を最近読み始めて昨日ようやく読み終えた。
この本はいってみれば古代ギリシア哲学から現代哲学−ダーウィンフロイトサルトル、そしてビックバン・宇宙論まで簡単に紹介した哲学史の本。


1991年、今から20年前の本だから、現代哲学にしては少し古いと感じたり、全体的に乱暴というか詳細に欠けるところがあるとも感じるけれど、三千年の哲学史を見渡すという点で、この本の価値はあると思う。
自分としても、哲学史の基礎的な復習をしようと思って読んだから、その意味では十分満足だった。


また、その書き方が変わっていた。
ただ、哲学史の講義をするのじゃなくて、登場人物の世界を通して、読者の世界を巻き込み、そして教えていく、そんな手法が面白かった。
ソフィーの世界』というタイトルも、それを示唆してる。
ネタバレになるので、その内容は自分で確かめて欲しいのだけれど、この本を読んで、印象的だったこと、また感想を少し。


確か高校生くらいだったと思うけれど、デカルトの『方法序説』を読んでから、理性で知ることが出来ることとして、「自分の存在」というのは確かだと思ってた(「我思う故に我有り」)。すべてを疑っても、自分が疑っている、という事実は疑えないから。
キアヌリーブスのマトリックスの世界も、すべては現実ではなかったけれど、その世界を感じているネオの存在は現実としてあった。
でも、この『ソフィーの世界』を読むと、理性によってはそれすらも「確か」とは言えないかも、ということが一つの収穫だった。


「もしも人間の脳がわたしたちに理解できるほど単純だったら、わたしたちはいつまでたっても愚かで、そのことを理解しないだろう。」(p.424)


上の言葉の意味がわかるかな?私はソフィーと同じように、何度も読み直したw


紀元前から現代に至るまで、思想の振り子が揺れながら、そして「進歩」しながらも、結局昔から同じことを人間は議論し考えている、ということが、この著者の一つの主張かな、と感じた。
この世界は永遠の昔からあったのか、それとも、ある時から・無から始まったのか。自分の存在の意味は何か。自分は誰なのか。
人間の理性・哲学でも、現代(そして将来)の科学によっても知ることは出来ない。
だから、すべての人は何を信じるか、何を選択するのか、自分で決めなければならない。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」
(ヘブル11章3節)