『ソフィーの世界』

このブログの主旨からはずれるのだけれど、本の紹介をメモがわりに残しておく。


。。3,4年前にブックオフで100円で買った『ソフィーの世界』を最近読み始めて昨日ようやく読み終えた。
この本はいってみれば古代ギリシア哲学から現代哲学−ダーウィンフロイトサルトル、そしてビックバン・宇宙論まで簡単に紹介した哲学史の本。


1991年、今から20年前の本だから、現代哲学にしては少し古いと感じたり、全体的に乱暴というか詳細に欠けるところがあるとも感じるけれど、三千年の哲学史を見渡すという点で、この本の価値はあると思う。
自分としても、哲学史の基礎的な復習をしようと思って読んだから、その意味では十分満足だった。


また、その書き方が変わっていた。
ただ、哲学史の講義をするのじゃなくて、登場人物の世界を通して、読者の世界を巻き込み、そして教えていく、そんな手法が面白かった。
ソフィーの世界』というタイトルも、それを示唆してる。
ネタバレになるので、その内容は自分で確かめて欲しいのだけれど、この本を読んで、印象的だったこと、また感想を少し。


確か高校生くらいだったと思うけれど、デカルトの『方法序説』を読んでから、理性で知ることが出来ることとして、「自分の存在」というのは確かだと思ってた(「我思う故に我有り」)。すべてを疑っても、自分が疑っている、という事実は疑えないから。
キアヌリーブスのマトリックスの世界も、すべては現実ではなかったけれど、その世界を感じているネオの存在は現実としてあった。
でも、この『ソフィーの世界』を読むと、理性によってはそれすらも「確か」とは言えないかも、ということが一つの収穫だった。


「もしも人間の脳がわたしたちに理解できるほど単純だったら、わたしたちはいつまでたっても愚かで、そのことを理解しないだろう。」(p.424)


上の言葉の意味がわかるかな?私はソフィーと同じように、何度も読み直したw


紀元前から現代に至るまで、思想の振り子が揺れながら、そして「進歩」しながらも、結局昔から同じことを人間は議論し考えている、ということが、この著者の一つの主張かな、と感じた。
この世界は永遠の昔からあったのか、それとも、ある時から・無から始まったのか。自分の存在の意味は何か。自分は誰なのか。
人間の理性・哲学でも、現代(そして将来)の科学によっても知ることは出来ない。
だから、すべての人は何を信じるか、何を選択するのか、自分で決めなければならない。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」
(ヘブル11章3節)