キリスト教哲学と科学論

偶像ばかりで鬱になるので、別の話題を(すべて繋がっているのだけど)。


稲垣久和という東京基督教大学教授の一つの論文のさらに一部を紹介。この記事のタイトルがその論文のタイトル。


 筆者はこれまで、いわゆる「科学と信仰」というテーマで科学知識を所有しているレベルの異なる様々な階層の人々に話をする機会が与えられました。その中で感じたことは、現代人にとって「科学という知のジャンル」はほとんど疑いをさしはさむ余地のない自明のことだ、ということでした。何も科学を職業上の仕事としている人だけでなく、一般民衆がそうなのです。
 現代人は、科学を相対化しうる視点をほとんど持ち合わせていないのです。



現代の文明国に生きる人々は、科学と科学の生み出したもの、科学的思考の中にどっぷりつかっているのです。これがまさに“文明”ということの意味なのでしょう。「科学という知のジャンル」に疑いをさしはさみ、これを相対化するためには、よほど強靱な思索力と自己反省の能力がなければ不可能なことです。そして私は様々なレベルの人々と対話する中で、人間の理論的な認識能力の中に、残念ながらこういう能力が備わってはいないと思うようになりました。



 しかし、私は、聖書が告げる神の言葉の宗教的根本動因は、それが与える根源的、爆発的な力のゆえに、科学の相対化を可能にするのではないかと思っています。また、もし可能でなければ、キリスト教という宗教は本当の意味で、現代人と現代文明に対する癒しと救済のパン種とはなり得ないでしょう。そして有神的人生観、世界観の樹立もあり得ないでしょう。

『福音主義神学』25号、1994、稲垣久和「キリスト教哲学と科学論」)