人間の現実−偶像礼拝(現代編)1

旧約時代の偶像は、金や石・木で作られた「刻んだ像」「鋳た像」だった。
新約時代の偶像は、「肖像」が刻印されたお金、つまり富だった(その視点でザアカイを読めるか?)。
そして、新旧共通した偶像礼拝の本質は、神を排除し、自分が神となり、自分の心の思うままを行う欲望だった。


注意してほしいのは、神を知らない異邦人が偶像礼拝を行ったのでなくて(当然行ってはいたが)、真の神を知っていたイスラエルの民、あるいは、キリストによって「イスラエルの民」とされたキリスト者が、偶像礼拝を行ったこと、また、そのことに注意するように、と命じられていること。

「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。」
(第一コリント 10:1-7)



ここでコリント教会にパウロが語っているのは、エジプトを出たイスラエルの民も、私たちキリスト者と同じようにバプテスマを受け、同じ御霊を受けたのにもかかわらず、偶像礼拝を行い、滅ぼされた、ということ。
当時のイスラエルがどうしようもなく愚かだったわけでなく、私たちと同じですよ、と言っている。そして、それはコリント教会だけでなく、現代のキリスト者にもそのまま当てはまる。




イスラエルの民が荒野で金の子牛を作ったとき、偶像を作ったという意識はなく、真の神を作ったと思っていたのだろう。
「彼ら(イスラエルの民)は『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言った」
出エジプト32:4b)


イスラエルがエジプトに居住していた期間は430年(出エ12:40)。その間に偶像礼拝が体に染み着いていたのだろうと思う。
そのイスラエルを、もう一度、真の神への礼拝者とすることが、出エジプトにおける神の大きな目的だった。
そのために、十戒をはじめとする律法を与え、神を礼拝する幕屋の設計図を与え、また祭司を立てたことが出エジプト記の後半に書かれ、実際の礼拝方法がレビ記に書かれている。


子羊の血によって罪の奴隷から解放された現代のキリスト者は、このことに対する自覚があるだろうか。。

キリスト教哲学と科学論

偶像ばかりで鬱になるので、別の話題を(すべて繋がっているのだけど)。


稲垣久和という東京基督教大学教授の一つの論文のさらに一部を紹介。この記事のタイトルがその論文のタイトル。


 筆者はこれまで、いわゆる「科学と信仰」というテーマで科学知識を所有しているレベルの異なる様々な階層の人々に話をする機会が与えられました。その中で感じたことは、現代人にとって「科学という知のジャンル」はほとんど疑いをさしはさむ余地のない自明のことだ、ということでした。何も科学を職業上の仕事としている人だけでなく、一般民衆がそうなのです。
 現代人は、科学を相対化しうる視点をほとんど持ち合わせていないのです。



現代の文明国に生きる人々は、科学と科学の生み出したもの、科学的思考の中にどっぷりつかっているのです。これがまさに“文明”ということの意味なのでしょう。「科学という知のジャンル」に疑いをさしはさみ、これを相対化するためには、よほど強靱な思索力と自己反省の能力がなければ不可能なことです。そして私は様々なレベルの人々と対話する中で、人間の理論的な認識能力の中に、残念ながらこういう能力が備わってはいないと思うようになりました。



 しかし、私は、聖書が告げる神の言葉の宗教的根本動因は、それが与える根源的、爆発的な力のゆえに、科学の相対化を可能にするのではないかと思っています。また、もし可能でなければ、キリスト教という宗教は本当の意味で、現代人と現代文明に対する癒しと救済のパン種とはなり得ないでしょう。そして有神的人生観、世界観の樹立もあり得ないでしょう。

『福音主義神学』25号、1994、稲垣久和「キリスト教哲学と科学論」)