天動説と進化論

聖書を神のことば、神からの啓示と考える私が、「聖書の記述と反するので進化論は受け入れられません」と言うと、それは中世における教会の間違いと同じ間違いを犯している、と言う人がいます。

かつての教会が天動説(太陽が地球の周りをまわってる)を支持し、科学的発見の成果である地動説(地球が太陽の周りをまわってる)を弾圧したことの間違いと対比しているわけです。(地動説が科学的発見の成果に起因しているか、という別の議論があるが、それはおいておく)


はっきりと言うと、中世の教会と同じ間違いを犯しているのは、進化論を受け入れた現代の教会の方です。


中世における科学的常識は、天動説でした。そして、教会における当時の神学は、先日ここにも書いたスコラ神学−つまりアリストテレス哲学との融合神学でした。自然神学だったと言うとわかりやすいかも知れません。
当時の最新科学であり、理性的な常識が、神の導いた真理であり、それが当時においては天動説だったので、それを否定するものを弾圧したのです。


。。。聖書にはどこにも天動説を支持する言及はありません。
伝道者の書1章3節の「日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く」を根拠として天動説を支持した、と聞いたことがありますが、ここは神のない生涯の空しさを表現した部分で、現代でも「地球が自転し、日が見えてきた」と言うより「日が上った」と表現します。


現代のことを考えてみましょう。
進化論と創造論(人は神が直接造った)とでは、どちらが現代の最新科学が支持し、どちらが理性的一般的常識だと言えるでしょうか。。  − 進化論です。
この現代最新科学が支持する、一般的常識である進化論を教会が受け入れているのであれば、それは、中世の時代背景の中で、教会が天動説を受け入れていたことと何の変わりもありません。


混乱してきたでしょうか?


別の書き方をすると、中世の教会は、何が間違っていて、どう対応すればよかったのでしょうか。
中世の教会の間違いは、当時の理性的・常識的見解を、聖書の上に置いて絶対化していたことです。それが自然神学の特徴とも言えます。
太陽が動いているのか、地球が動いているのか、聖書は何も語っていません。
何も語っていないことに対して、中立的態度をとり、静観すべきでした。


それでは、進化論についてはどうか。
このことについては、聖書は明確に対立します。


この聖書の対立点について、この『ゲノムと聖書』にも、また同じような立場にある、天文学者のヒュー・ロスも、素人ながらがんばって創世記を取り上げながら、聖書と進化論は対立しないことを語ろうとしています。次回はこの部分について検証します。