自然と恩恵の二元論と信仰一元論

このブログでは、科学哲学を少し紹介しながら、科学というものが通常信じられているように「中立的で客観的データをもとに、累積して進歩していくもの」でなく、それぞれの時代の思想に影響された、主観的いわば”信仰”だ、ということを示そうとしてきた(それにはもうちょっと科学哲学を紹介する必要あるけれど)。


そして、その科学の前提になっている「思想」というのは、村上陽一郎も指摘するように、現代においてはキリスト教・聖書が語る幼稚で頑迷な暗さ(蒙)を、人間理性の光によって明るく(啓)しようという啓蒙思想


もし現代科学、現代文明・文化が、そのような反キリスト思想を根底にして築かれたものなら、私たちはこれらが生み出してきた恩恵を捨て、アーミッシュのような原始的生活をすべきなんだろうか。


もし、私がそう考えているなら、供給された電気によって動くPCに向かい、無線LANを使ってブログに書き込んだりはしない:p


前回、現代のキリスト者は魂の救いのことに関しては聖書を用いるが、その他日常生活に関わる一切のことは、聖書以外から教えられた価値観で判断する、という内容の引用を載せたが、春名も、ステパノ・フランクリン*1という東京基督教学園の学長だった人も、そのような考え方について「二元論」あるいは「二王国論」と表現している。
救いのことに関しては聖書に書かれているが、それ以外のこと、日常生活を送るうえでは、聖書を読んでも何の足しにもならない、と考えることである。


それに対し、信仰一元論という考え方がある。『思想の宗教的前提』という本の中に、これについて説明しているので、以下に抜粋する。

異教哲学の誤謬を拒否することが、理性機能そのものを排撃することと混同され、信仰が地上的事象の認識や行為、地上的歩みとしての文化や労働の中に具体化される道が閉ざされてしまって、修道院的隠遁主義かアコスミズム(無世界論)かあるいは地上的歩みの中に信仰を論証的機能と無媒介に持ち込む狂熱主義となる。(p5)



反理知主義。論理よりフィーリング、教理より賛美、「考えるな感じろ!」的な現代にはぴったりな信仰一元論。実質的には聖書の知識が浅いので、この世の価値観を持ちながらの熱狂主義が多いのじゃないかと思う。


この信仰一元論の代表者としてあげられるのが、三位一体論の(ややこしいか)テルトゥリアヌスである。
彼は「アテネエルサレムは何のかかわりがあるか」と語って、アテネ(理性)とエルサレム(啓示)の関係を拒否して、晩年にはモンタヌス運動に加わったそう。


これについて、前掲書の引用をもう少し。

この世の思想に含まれる真理契機、政治、文化などの一般恩恵に支えられる相対的善に属する事柄、この世の種々の領域における信仰の具体化としての営み、それらを聖書の立場からどのように位置付け、批判し、またどう関係するかという論証の道は閉ざされて、信仰は次第に内面化して、聖書を体系的合理的真理として追究する教義学的熱心も成立せず、その信仰は専ら個人の内面性と主体性とにのみかかわる実存的真理となり、主観的敬虔主義となる。(p7)



じゃあ、何が正解かというと、理性を否定してしまうのでなく、非再生理性を否定し、再生理性を用いること。これには御言葉と御霊がなくてはならない。これについて、なんのこっちゃという感じだと思うので、次回に書こうとおもうけれど、このことについて最近の日本の福音派について思うことを最後に書いておく。


最近の日本の保守派・福音派は、アメリカの反保守・反福音派の動きにまねようとしているんじゃないだろうか。
日本の福音派は「ブッシュなんか支援するか!戦争断固反対だ!アメリカの福音派と一緒にするな!」と全くその通りの主張をしているのだけれど、それと共に「アメリ福音派のような、幼稚な反理知主義とはちがう!」と言うついでに「もっと理性的に、科学的成果を受け入れるべき」と、この再生者と非再生者の理性の対立を考えずに、対話とか言い出してないかなぁ。。


(参考 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100811/p1 )



*1:キリスト者は誤った二元論−日曜日には霊的生活をして月曜日以降は労働生活をといった二元論」「私たちの多くは、イエスの生涯と教えが私たちの日常の働きや、裁判所、市場、実験室、あるいは社会全体とはあまり関係がないように思っていることを認めざるをえません。これはキリスト仮現論とグノーシス主義と呼ばれる2つの異端の近代版といえるでしょう。これらの異端説によると、一方には、聖霊と宗教の汚れのない世界があり、そこではイエスが救い主であり主です。しかし他方には、神とはまったく関係のない事物や日々の生活のことがらの汚れた世界があり、そこではイエスは救い主でもなければ主でもないと考えるのです。教会はまさに、こうした異端説に反駁するために創造の教理を体系化しました」(ステパノ・フランクリン『キリスト教世界観とリベラルアーツ』p7.8)