人間の現実−偶像礼拝(旧約編)

「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。
 もし主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」
(第一列王記18:21)



 上記は、預言者エリヤがイスラエルの民に語ったことば。


当時のイスラエルでは、アハブ王とその妻イゼベルの影響もあって、バアルやアシェラという偶像礼拝がさかんに行われていた。


。。イスラエル十戒のはじめで、非核三原則なみに偶像礼拝を禁止されているのに、何度も偶像礼拝を繰り返した。その記録が旧約聖書と言っても過言じゃないくらい。


以前、創世記のアダムからアブラハムまでの構造をここに紹介したときに、堕落(罪・悪)と回復(義・善)が交互に書かれていると紹介したけれど、旧約聖書全体にわたって、この構造がある − というか、単に人の愚かさの現実と、神の憐れみ深さが繰り返し書かれている、と言ったほうがいいかもしれない。


ノアの時代も「暴虐が地に満ち」て、神は地を水によって滅ぼしたけれど、それで人が良くなるだろうとは言わなかった。反対に、「人は初めから−幼いときから悪い」から人の悪を理由として地を滅ぼすことをやめる、とある。それでは根本的な解決にはならず、定期的に洪水を起こさなければならないから。


民数記には、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が、何度も神に救われながらも、つぶやき、不平を言って、偶像礼拝を行ったことが書かれている。そのために、エジプトを脱出したおそらく100万人以上の中で、約束の地に入ることが出来たのは、カレブとヨシュアの二人だけだった。


士師記には、約束の地に入ったあと、イスラエルに王が立つまでの時代が書かれているけれど、この時代も、イスラエルの悪 → 主の怒りによるさばき → 悔い改め → 平和 → イスラエルの悪 → さばき → 悔い改め → ・・・ の無限ループ。「いい加減学習しろ!」と思うほどの愚かさっぷり↓

「こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた」(士師3:7)
イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った」(同 4:1、6:1、13:1)



イスラエルが王制になり、外見はよかったが、信仰と知恵がなかったサウル王、そのサウル王にさんざん追い回された信仰の人ダビデ王、そして、その子知恵者ソロモン王と、この時代はまだ良かったけれど、ソロモンの死後、イスラエルが南北に分裂した後がひどい。
さんざん偶像礼拝をして、そのさばきとして、北イスラエルアッシリアに滅ぼされ、南ユダもバビロニアに捕囚となり、エルサレムは陥落する。
(何で偶像礼拝がそんなに悪いの?という人はホセア書を読めばわかるかも)


そのひどかった時代の預言者のひとりが、冒頭のエリヤ。


そんな時代のイスラエルの民も、完全に神を忘れていたわけじゃなかった。まことの神を礼拝しながら、偶像も礼拝していた。


。。エリヤの時代から、およそ3000年たった今、私たちキリスト者の状況はどうだろうか。
私たちは旧約聖書に書かれた愚かなイスラエルの民とは違うだろうか。
彼らもほんとうの神を知り、あるときには礼拝もささげる者たちだった。


確かに大戦下のように、神社参拝を強要されることはない。(積極的に参拝するキリスト者もいるがw)
地蔵や仏像など、偶像はたくさんあるが、キリスト者であればそれを拝むことはしない。
原始的で愚かな旧約のイスラエル人とは違って、現代の私たちはもはや偶像礼拝とは無縁なんだろうか。


イスラエルの民は、バビロン捕囚以後に徹底的に悔い改めて、それ以後偶像礼拝からは遠ざかったという。
たしかにバビロニアによる破壊−特にエルサレムの破壊は凄まじかった。その状況の悲惨さは、例えば哀歌を読むとよくわかる。
その原因となった偶像礼拝の罪を徹底的に悔い改める、ということはあっただろうし、福音書に見られる新約の時代においても、ユダヤ人が偶像礼拝を行ったという気配さえない。


それでは、捕囚後のイスラエルから新約の時代、さらには現代において、キリスト者は完全に偶像礼拝からは手を切ったんだろうか。


これは信仰二元論と信仰一元論の話しからの続きになっているのだけれど、わかりずらいかな。
次回は新約、そして現代編を書きます。