人間の現実−偶像礼拝(新約編)1

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということは出来ません。」(マタイの福音書6章24節)

"No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or he will hold to one and despise the other. You cannot serve God and mammon." (Mat 6:24 NAS)



前回書いたように、新約聖書・特に福音書において、イスラエル人が偶像礼拝をしている気配は全くない。
それどころか、どちらかというと律法(旧約聖書に記された神の命令)を守るということにおいて誇りを持っていて、イエスに永遠の命について質問した人たちも、「自分は幼い頃から律法をすべて守っている」と律法厳守を自負していた。


。。イエスが山上で教えたように、律法の本来の意味を知っていたなら「幼いときから全て守っている」なんて言えるはずはなかったのだけど、とりあえず目に見える偶像礼拝をしていなかったことは確かだ。


それでは、旧約の時代、さんざん偶像礼拝を繰り返してきたイスラエルの民は、新約の時代には完全にそれから離れていたんだろうか。


新約聖書において、偶像と解釈出来るものがいくつかある。
一つは「カイザルのものはカイザルに」で有名なローマ皇帝
エスがこれを言ったときは、ローマが帝政になって第二代目のティベリウス。このときのデナリウス硬貨を、今もお金を払えば買うことも出来るけれど、この硬貨に記されているのは、ヒソプを持った祭司としての皇帝の肖像と「神の子ティベリウス」という刻印。これは当時ローマ皇帝が神であり、また祭司であることを示している。
もちろんイスラエルの民はそれを認めても崇めてもいなかったけれど、ローマ皇帝という偶像はあったことがわかる。


二つめは、一番はじめにあげた御言葉と関係がある。それは「富」という偶像。
下の英語の訳を見ると、この「富」の部分がmammonとなっている。
これは、原文のギリシア語がμαμωναというアラム語由来の言葉が使われているから。
英語をカタカナ表記すると「マモン」だけど、この言葉をイエスは偶像を意識して使ったのかも知れない。
なぜかと言うと、「富」というギリシア語はπλουτοsという言葉があって、新約で22回、マタイの福音書でも13章22節で使ってる。
ここで、聖書中ほとんど使われてない言葉を使って、「神に仕えながらマモンに仕えることは出来ない」とイエスが言ったのは、「富」を擬人化して、神との対比を明確にしようとしたからじゃないだろうか。


こう考えると、新約の時代においては、旧約とは違って、目に見える像・刻んだ像が偶像というより、目には見えない、あるいは見えづらいけれど、実質偶像の働きをしているものがあること、それを引き続き注意すべきことが語られているように思う。


「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3章5節)


「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(第一ヨハネ5章21節)





つづく。。