人間の現実−偶像礼拝(新約編)2

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3章5節)


前回、新約時代の偶像は「富」「貪欲」のような、目に見えない物としてあった、ということを書いた。
偶像とは何か、ということを旧約時代の偶像を思い浮かべて書くと、「神にとって代わるもの」と言うことが出来る。
人間は本来、神の栄光をあらわすものとして造られた。
もう少し具体的に言えば、神を礼拝し、神と交わりを持ち、神の命令に従い、神のために生きるものとして造られた。


それが堕罪後、人は神に背き、神ではなく自分を主とし、自分のために生き、自分の心の思うままを行うようになった。
人間中心主義、いわゆるヒューマニズムはローマのキケロとかセネカが作り出したものではなくて、カインの子孫にすでに見いだすことが出来る、ということを以前「カインの末裔と・・」という記事で書いた。


聖書の時代のさまざまな偶像も、現代の仏像や占いも、結局は人間の欲、自分の欲を満たすために作られている。
商売の神、受験の神、恋愛・結婚の神、交通安全の神。。。


さらに言えば、偶像礼拝は、性欲などの貪欲と結びついている。

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。
 娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。」
民数記25章1,2節)



性欲と食欲。これらも本来、神の栄光をあらわすために、祝福として与えられたものだけれど、それを汚すものとして用いるのが偶像礼拝。
コリント教会にも、偶像礼拝とともに、食事の問題・性的問題があったことが第一コリントに書かれているし、ローマ1章にも偶像礼拝と性的混乱が連続して描写されている。


。。偶像礼拝の本質というのは、人間の欲望・貪欲を満たしてくれる、神以外のもの、とも言える。
その意味で、人のそうした貪欲を満たすものがそのまま偶像礼拝と言うことが出来るし、その貪欲を満たすための道具の一つである「富」「お金」が偶像となる。


これは新約時代にも、また現代の私たちにも同じことが言える。


エスが何度も語っていることは、神を信じているなら、自分の生活のことで思い煩うな、ということ。何を食べるか、何を着るか、そういった衣食住のことは、神が養ってくれると。
神を知らない人が、生きるため、お金のために働くことは仕方がない。神を知らないのだから。
だけど、神を知っているキリスト者たちが、神を信じていると言いながら、未だにお金を稼ぐため、自分が生きるために、仕事をしているとするなら、それは実質で神を信じていないのと同じだ。


お金があれば、食べ物も、着る物も、家も買うことが出来る。細かく言えば、電気代も水道代も市民税もプロバイダ代も本代もDVDレンタル代も子供の習い事の月謝も払うことが出来る。
だから、お金が必要だし、より多くあれば、それにこしたことはない、と考える。
でも、反対に言えば、お金があれば、神になにかしてもらう必要はないということになる。
食べる物も着る物も、生活に必要なすべてのものは、神に与えてもらう必要はなく、お金があればいい。


現代のキリスト者が神を必要とするのは、死んだ後の保証と、漠然とした“導き”のためくらいじゃないだろうか。
進路や就職、結婚の“導き”。良い将来の“導き”。良い人間関係の“導き”。
そのために神に祈るなと言っているわけでなく、自分の幸せや欲を満たしてもらうために神に祈るなら、いや神を利用しているのであれば、それはこの世の偶像礼拝と動機はさほど変わらない、ということ。まだ真の神に祈っているだけましかと思うが。


「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。」(ピリピ2:21)



神によって買い取られたキリスト者は、お金のため・自分のためでなく、神を主として神のために生き、神の命令(「地を従わせよ」etc)を行うことにおいて、働くべきだと思う。




。。もう少し続きを書きます。

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