啓蒙思想の聖書解釈への影響

以下は2年程前に創世記の学びを始める前にまとめたもの。

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<創世記を読む前に>

17世紀後半から、18世紀にかけて、啓蒙思想がヨーロッパで主流となる。
啓蒙思想というのは、暗いところを光で照らす、という意味。
「暗さ」はキリスト教の迷信。奇跡や超自然現象を意味し、「光」は人間の理性をあらわした。
啓蒙思想の特徴に、進歩主義があった。あらゆる領域で、理性が拡大し、さまざまな科学的発見により、合理的な進歩が裏付けられている、という考え。


この時代背景の中で、ダーウィンの進化論が生まれる。
進化論の発表をとまどっているダーウィンのもとにウォレスという人が訪れ、ダーウィンと全く同じ考えを彼に打ち明け、それをどう思うか、と問われて驚き、急いでそのウォレスの考えと共に進化論を発表し、『種の起源』(1859年)を出版した。
ウォレスは経済学者マルサスの『人口論』(1798年)を読んだ結果、進化論を思いついた、と書いている。そして、ダーウィンも、「1838年10月、たまたまマルサスの『人口論』を読んでいるときに、この答えがパッと頭に閃いたのである。この理論こそ、私が探し求めていたものだった」と自伝に書いている。(参考:『科学的発見のパターン』)
マルサスの『人口論』の内容は、人口の増加に対し、食料の増加は常に不足し、この慢性的な食糧不足を穏和するために、飢えや貧困、悪や犯罪、疫病や飢饉、革命や戦争などの過酷な社会状況が生じ、人口調整が行われる。−つまり、生存競争という自然の法則によって、強者は勝ち、弱者は滅びる、というもの)


...啓蒙主義、進化論隆盛の時代背景(現代もそうだが)の中で、聖書も理性で受け入れられない奇跡や神話を排除し研究し解釈する、という「聖書学」がドイツをはじめとして起こる。


19世紀末、ドイツのユリウス・ヴェルハウゼンという人が、『イスラエル史序論』(1883年)を出し、宗教進化論という考えを発表する。
この考えは、聖書の宗教の起源は原始的な自然宗教アニミズム多神教)にあるが、それが段階を経て倫理的・普遍的な高等宗教(一神教)へと発展(進化)し、やがてそれが形骸化して祭儀・律法偏重の宗教となりユダヤ教に至ったという宗教史観。
この考えに基づき、創世記を含めたモーセ五書の著作年代を、その使われている神の名前などによって、4つの時代に分けた。
(J資料(BC950年頃、南ユダ王国):ヤーウェという名前を使っているもの、
 E資料(BC850年頃、北イスラエル王国):エロヒームを用いる、
 D資料(BC621年頃):申命記文書作者
 P資料(BC450年頃):祭儀律法を扱う。)


この学説によって、例えば、創世記1章は、E資料、2章4節以降はJ資料である、と解釈され、以後、このヴェルハウゼン学説(資料仮説・文書資料説)が権威あるものとして、後100年間受け入れられた。(日本キリスト教団系の一部の教派などは、今でもこの立場をとっている)
そして、そのような宗教史観(神話−あるいは、古代オリエントの他宗教の影響によって編集されたもの)によって、創世記は解釈され、翻訳(新共同訳など)にも影響を与えている。


このような、啓蒙主義・科学絶対の中にあって、その限界も指摘されつつある。ケンブリッジ大やイェール大で哲学教授を務めたラッセル・ハンソンは、「理論負荷性」という概念を提唱した。理論負荷性とは「『観察は、理論と無関係に、理論に先立って行なわれる』のではなく、『観察は理論(または観察者があらかじめ持っている知識)をとおして行なわれる』、『観察は理論を背負っている』という考え方。」である。また、1962年、トーマス・クーンというアメリカの科学哲学者は『科学革命の構造』を発表し、科学は常に累積し、進歩していくものではないこと、又、その時代の価値観によって観察や「科学的」結果は左右される、相対的なものであることを指摘した。また、カルフォルニア大学バークレー校の哲学教授だった、ファイヤアーベントも『理性よさらば』(1987年)などを著し、これに続いた。


しかし、一般には、啓蒙主義的傾向は未だに根強く、反キリスト教的で"科学的"言説は多くの人に喜ばれ、受け入れられている(『ダビンチ・コード』『天使と悪魔』の映画化もその一つ)。そのようなの中で、すべてのクリスチャンたちがそのような啓蒙思想の波に押し流されてしまったのでなく、一部の人たちはそのような考えに対抗し、例えば「聖書解釈学に関するシカゴ声明」(1982年)を発表。

二、キリストが一つの人格において神であり人であられるように、聖書も分割できないものとして、人間の言語における神の言葉であることを、われわれは主張する

とあり、聖書学が聖書をバラバラにしてきたことに対抗するように書かれている。



啓蒙思想・進化思想(科学絶対)の時代の中にあって、聖書はどのような人間理解、世界理解をしているだろうか。
福音主義キリスト教福音派』(いのちのことば社1984 p150,151)の中で宇田進氏は以下のように語っている。

 聖書は、人間の状態について、まず「罪過の中に死んでいる」(エペソ二5)と断定している。次に「知性において暗くなり」(同四18)、「不義をもって真理をはばんでいる」(ローマ一18)と指摘している。さらに、「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、・・・神の真理を偽りと代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕え」(同22,25)ていると糾弾している。このように、聖書は人間から自律性と自己充足の仮面をはぎ取る一方、未再生者の知性がいかに堕落、腐敗、歪曲したものであるかを指摘するのである。
 また、この世界についても、それが「虚無に服し」、「滅びの束縛」(ローマ八20,21)のもとにあることを強調している。この世の文化についても、聖書はカイン的、レメク的デカダンス*(創世四1-24)を厳しく戒めている。
 聖書はこのように人間、世界、文化が、神の創造とその結果によるものであるにもかかわらず、実際には罪のゆえに背教的方向をとり、アブノーマルな状態にあると見ている。
(*デカダンス...「虚無的、退廃的な風潮」の意)

聖書は、聖書自身が主張するように、人間のわざでなく、神の霊感によって書かれた神のことばであり、神の啓示である。その前にへりくだり聞くことをもう一度確認すべき。
その上で、聖書は、書かれた当時の文法や文化的背景の中で書かれているので、その文化的背景を知り、著者が伝えようとしたとおりに読む努力が必要になる。
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