自然神学

自然神学、というのは、聖書以外の別の方法で、神について知ることが出来る、という立場の神学。
人は生まれつき持っている良心や理性で、真理を知り、良いことを行うことが出来る立場、と言い換えることも出来ると思う。
宇田進の書いた『総説 現代福音主義神学』の中に、自然神学について詳しく書かれているが、その一部を抜粋。

古代教会においては、ストア哲学において発展を見た「ロゴスの種子」と呼ばれる考え方が、たとえばユスティノスの『弁証論』などにおいて援用された。それによれば、万人を照らす光としてのロゴスは、すべての人間に「種としてのロゴス」という形で宿っているが、その完全な形でのロゴスはただキリストの中にのみ見いだされるという考え方である。(中略)ソクラテスのようなギリシヤの哲人たちの中にもこのロゴス(神的真理)の種が与えられている、と主張した。
 このようなギリシア的知恵と福音との連続性の立場に立つと、ただ教会にとって必要なことは、キリストに関する啓示の光をもってそれを補完するのみであるということになる。このような発想は、やがてアレキサンドリアのクレメンスにおける「福音のための準備」という理論へと発展した。そして、中世においてはトマス・アクィナスに代表されるスコラ神学において、本格的な体系化を見るに至ったのである。(p169,170)

わかりやすく言うと、自然神学の考え方は、人には罪があるけれど、その影響はそれほどでもないよ、ということ。
まあ悪いこともするかも知れないが、良いことだって人には出来る。ブルーハーツの歌に”いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない”とあったけど、一般的にはこういった人間観が普通だと思う。新共同訳の伝道者の書の翻訳も、その認識にあわせて訳しているように思える。

罪の影響を深刻に考えなかったのはペラギウスが有名だけれど、上記にあるようにトマス・アクィナスも同じ。

福音主義神学』の中で春名純人の『哲学と神学 (関西学院大学研究叢書 (第50篇))』を引用しているが、確かにその部分によくまとめられているので、『哲学と神学』の方から直接引用;

トマスに代表されるスコラ哲学的カトリック世界観は、このようなギリシャ哲学的世界観と聖書の折衷的立場である。彼らによれば、罪の堕落によって失われたものは付加的恩恵だけである。これによって人間本性は元の調和を失ったが、人間本性は罪によっても根元的には腐敗せず、理性そのものも、ただ傷ついているだけであると考えている。(p242)

トマスの生きた13世紀前後にスコラ学は隆盛したけれど、現代において、全く同じ形態で再びこの自然神学は隆盛して来ている。
かつてのスコラ学がギリシア哲学によって聖書を解釈し神学を作ったように、現代科学の説明によって聖書を解釈しようとする、いわば”科学的”世界観と聖書の折衷的立場が、最近になって力をつけて来ているように思う。
時代は違っても、どちらも根本的な考え方は同じで、神を知らず、罪の中にとどまり、当然新生もせず、聖霊の助けもない人が、その自らの築き上げてきた知恵・累積してきた知恵によって、人間について、又、この世界について正しく知ることが出来る、と考えている。


次にこの立場にある人の本を取り上げて、簡単に検証してみようと思う。