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以下は『新しい科学論』の1頁で、「ゲノムと聖書批判(3)」の最後に書いたことに対する参考の一つとして載せておく。

「今のわたくしどもには、屁理屈にしか聞こえないこの理解は、フロギストン理論を共有する共同体の中では充分説得的であり、かつ客観的であったのです。これは単に一つの例に過ぎません。(中略)過去のそれぞれの時代にこうした例が数々あるということは、現在のわたくしどもが絶対的に確かだと思いこんでいる科学理論においても、後代の人びとが見たら、屁理屈としか思えないような理解に立っている、という可能性からわたくしどもがまぬがれ難い、ということを示しているのです。
現在のわたくしどもでも、現在わたくしどもの共有する科学理論に対して致命的な反証となる「事実」をすでに数多く入手していながら、しかも、それに気づいていない、ということは、想像してみるのにあまり愉快なことではありません。とりわけ現場の科学者の方々にはそうでしょう。」(p189)

新しい科学論―「事実」は理論をたおせるか (ブルーバックス)

新しい科学論―「事実」は理論をたおせるか (ブルーバックス)

天動説と進化論

聖書を神のことば、神からの啓示と考える私が、「聖書の記述と反するので進化論は受け入れられません」と言うと、それは中世における教会の間違いと同じ間違いを犯している、と言う人がいます。

かつての教会が天動説(太陽が地球の周りをまわってる)を支持し、科学的発見の成果である地動説(地球が太陽の周りをまわってる)を弾圧したことの間違いと対比しているわけです。(地動説が科学的発見の成果に起因しているか、という別の議論があるが、それはおいておく)


はっきりと言うと、中世の教会と同じ間違いを犯しているのは、進化論を受け入れた現代の教会の方です。


中世における科学的常識は、天動説でした。そして、教会における当時の神学は、先日ここにも書いたスコラ神学−つまりアリストテレス哲学との融合神学でした。自然神学だったと言うとわかりやすいかも知れません。
当時の最新科学であり、理性的な常識が、神の導いた真理であり、それが当時においては天動説だったので、それを否定するものを弾圧したのです。


。。。聖書にはどこにも天動説を支持する言及はありません。
伝道者の書1章3節の「日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く」を根拠として天動説を支持した、と聞いたことがありますが、ここは神のない生涯の空しさを表現した部分で、現代でも「地球が自転し、日が見えてきた」と言うより「日が上った」と表現します。


現代のことを考えてみましょう。
進化論と創造論(人は神が直接造った)とでは、どちらが現代の最新科学が支持し、どちらが理性的一般的常識だと言えるでしょうか。。  − 進化論です。
この現代最新科学が支持する、一般的常識である進化論を教会が受け入れているのであれば、それは、中世の時代背景の中で、教会が天動説を受け入れていたことと何の変わりもありません。


混乱してきたでしょうか?


別の書き方をすると、中世の教会は、何が間違っていて、どう対応すればよかったのでしょうか。
中世の教会の間違いは、当時の理性的・常識的見解を、聖書の上に置いて絶対化していたことです。それが自然神学の特徴とも言えます。
太陽が動いているのか、地球が動いているのか、聖書は何も語っていません。
何も語っていないことに対して、中立的態度をとり、静観すべきでした。


それでは、進化論についてはどうか。
このことについては、聖書は明確に対立します。


この聖書の対立点について、この『ゲノムと聖書』にも、また同じような立場にある、天文学者のヒュー・ロスも、素人ながらがんばって創世記を取り上げながら、聖書と進化論は対立しないことを語ろうとしています。次回はこの部分について検証します。

科学者の厚顔

「科学者は厚顔なのだ。彼らは事実が理論に合わないからといって、理論をおいそれとは捨てない。そういう場合彼らは、通常は、新しく救済用の仮説を案出して、理論に合わない事実を単なる一つの変則事例と呼べるようにしてしまった上でそれを説明してしまうか、その変則事例をうまく説明できない場合には、それを無視して、別の問題に関心を移してしまうのである。科学者は、変則事例や手強い事例については語るが、反証事例については語ろうとしないことに注目しよう。」

ラカトシュ『方法の擁護』(1986、p6)

方法の擁護―科学的研究プログラムの方法論

方法の擁護―科学的研究プログラムの方法論

科学哲学の簡単な紹介

創造論や進化論に関して、どんな問題があるのか、どんな議論がされてきたのか、ある程度知っている人は多いけれど、「科学哲学」についての知識がある人はまだ少ないように思う。
そこで、”ゲノム”批判の合間に、科学哲学の紹介を簡単にしていきたいと思う。

以下は野家啓一『科学の解釈学』から抜粋。

 自然科学の方法といえども超歴史的な妥当性と「価値中立的」な客観性をもつものではなく、歴史的・社会的に制約された一定の「認識関心」に導かれ媒介された行為であり、しかもそれは特定の時代の科学者共同体のコンセンサスに基礎を置く、という主張がそれ(科学哲学の主張)である。
 科学の方法を科学者共同体が営む<言語ゲーム>のルールと考えるならば、そのルールは明らかに規約的な性格をもち、しかもその妥当性は共同体の構成メンバーの間主観的合意に基づくものだと言わねばならない。(p41)

増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

『ゲノムと聖書』批判(2)

あるとき進化論についてネット上で議論していたとき、私が「進化論が信仰ではないという証拠を出してください」と聞くと、それまでの勢い(進化論擁護の書き込み)がなくなったことを覚えている。
日本人の大半が進化論を当然の事実として受け入れているだろうけれど、何を根拠にしているか、と言われると「そう教えられたから」「NHK・テレビでそう言っているから」「あたりまえだから」と、それを検証したことがない人がほとんどだと思う。
絶対基準のない人にとって、それは仕方のないことだとも思うが、聖書を神のことばと信じるクリスチャン、特に、誤りのない神のことばと信じる保守派・福音派のクリスチャン、さらにはその牧師までもが、この『ゲノムと聖書』のような本に「教えられ」て、進化論による生物発生の世界観を持ってしまうことが本当に悲しく思う。
ちなみに、意外に思われるかも知れないが、ネット上で議論していた中でクリスチャンでない人たちの中に、進化論は信用できないと考える人が少なくなかった。雑誌『ニュートン』を創り、亡くなるまで編集長だった竹内均もそのような反進化論者だった。

。。前置きが長くなったが、『ゲノムと聖書』を引用しつつ検証する。

科学的理解が現時点で欠けている箇所に、神の介入による特定の業を挿入しようとするときにはよく気をつけた方がいい。(p91)

この文は、生命発生について、現代科学ではっきりしたことは何もわかっていない、という文脈の中で、しかし、それだからといって、神を持ち出さない方がいい、と言っている。
おそらくコリンズは、以前ジェームス・キャメロン出エジプトの10の奇跡と海を分けた奇跡を、「神の介入による特定の業」でなく、自然現象で説明したCGドラマを喜んで観たひとりだろうw
エリヤの天からの火も、ヒゼキヤのために日時計の影が逆行したことも、そして、イエスが処女で生まれ、死んで三日後に復活したことも、「神の介入による特定の業」かどうか、よく気をつけて、科学が説明してくれるまで、それは神の特定の業であるかを保留すべきなのか?!

イスラエルの民が神の幾たびの奇跡に救われながら、神を信じようとしないことに、神は次のように語っています。

「エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」(民数記14章22、23節)

今、"The Christian Atheist: Believing in God but Living As If He Doesn't Exist"という本(訳すと『無神論クリスチャン』『神を信じないクリスチャン』という感じ)を読んでいるけれど、毎週教会で「我は全能の父なる神を信ず」と唱えているクリスチャンでさえ、実質は全能の神を信じていない、神がいわゆる「科学法則」を超える方であると信じていない、別の言い方では「主は生きておられる」ということを、信じていないのではないかと思う。

以下に「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の一つを引用する。

十二 聖書はその全体において無誤であり、偽りや虚偽や欺きが一切ない、とわれわれは主張する。

 聖書の無謬性と無誤性は、聖書中の霊的、宗教的、救済的な事柄に限定されるものであって、歴史や科学の分野にかかわる記述は除かれるという考えをわれわれは否定する。また、創造や洪水に関する聖書の教えをくつがえすために、地球の歴史に関する科学的仮説を用いることは正当化される、という考えも否定する。(『福音主義キリスト教福音派』宇田進、1984、p258)

。。一般の人はもちろんこういったシカゴ声明も、私が書いていることも受け入れることは出来ず「ああカルトか」ぐらいに思うだろうけれど、保守派・福音派を自称する人・特にその教会に属する牧師は、もう一度このことをよく考えてもらいたい。

『ゲノムと聖書』批判(3)

「批判(2)」からの続きだけれど、それではこの本の中で繰り返し主張している「進化論が事実である」という証拠はなんだろうか?
私もこれほどの人の書いた最近の本だから、何か真実らしいもの、検証に値することが載せられているかも、という期待と共に興味を持って読み始めた。
。。読み終えた後の率直な感想は「この本には中身がない」というものだった。もちろん、それは個人的感想だけれど、なぜそのように感じたのか、少し引用しながらその心情をお分かちしたいと思う。。

今日、本格的に生物学を研究する生物学者であれば、生命の素晴らしき複雑性と多様性を説明するのに進化論を疑う人はいない。
事実、進化のメカニズムを通してすべての種の間に関連性があることは、生物学全般における理解の動かし難い基礎となっている(p97)

ふむふむ。それで進化論の妥当性は?

カニズムとしての進化は真実であり得るし、真実に違いない。(p104)

そうですか。で、進化論の証拠はなんでしょう?

複数のゲノムを調査した結果、ヒトのDNA配列を他の生物のそれと詳細に比較できることがわかった。(ヒトのDNAとチンパンジー・犬・マウス・ショウジョウバエ・線虫のDNAの類似を示し)これらの事実は、−ダーウィンの進化論、すなわち、生物は共通の祖先から不規則な変化と自然選択を経て進化してきたという知見を強力に支持している。(p123)

DNAが似ていることが、進化論の証拠?!
同じ創造主が造った証拠とは言えない?!

淡水産と海水産のトゲウオの違いを拡張していけば、やがてさまざまな種類の魚が生まれるだろうことは想像に難くない。このように、大進化と小進化の区別はむしろ恣意的であると言える。新しい種を生む大きな変化は、小さな漸進的変化の積み重ねの結果なのである。(p127)

淡水産と海水産の魚の違いから、あらゆる種類の魚が生まれること、さらに大進化;魚が地上を歩き出して動物になったことも、ネズミから最終的にヒトに進化したことまで「想像に難くない」という結論になる?!
「淡水産のトゲウオ」には、EDA遺伝子があり、それが進化の原因になり、そのEDA遺伝子が人間にもある、だからこういった”想像”が生まれているようだけど、トゲウオと人間だけが進化したの?どの生物にもこの遺伝子がないとおかしくない?


他にもウィルスや細菌が変質することを例にあげて「進化の証拠だ」と言っているけれど、ちょっと苦しくないか。。


。。というのが率直な感想だった。


科学者らしく、このような理由で私は進化論の立場をとる、私は進化論の立場にこれこれの理由でアブダクション(現時点でもっとも有効性が高いこと)があると思う、と書けばいいものを、自分がいかにすごい人物なのか、いかにすごいプロジェクトに関わり、大統領の隣に立って、その成功を発表したか、その成功を讃える歌まで書いて、その情熱をアピールしている。
そういった内容がほとんどで、真摯に進化論の根拠について書かれている部分はなく、上記のようなものばかりだった。
「。。とにかく、進化論が事実だ。進化論が正しくなければ、話にならないのだよ!」と繰り返し自分の研究成果と共に語っているだけとしか読めなかった。

書かれているように、実際に、生物学に携わる人たちにとって、進化論を前提に研究をしているのだから、その土台を否定されることは、今までの研究を無にされることと同じことだと思う。このような研究が、これまで多くの貢献をしてきたことも事実だ。そこの部分で、みな混乱してしまい、だまされてしまう。

このことについて、↓の引用に出てくる「言語ゲーム」を解説することで、少し説明出来るかも。

『ゲノムと聖書』批判(1)

ヒトゲノム研究所の所長(1993-2008)で、国際ヒトゲノム計画の代表も務めたというフランシス・コリンズの書いた『ゲノムと聖書』(NTT出版、2008)を検証する。
ちなみに中村佐知という、プリンストンを出た心理学博士が訳者のひとりだそう。この人の翻訳にはウィルキンソンの『ヤベツの祈り』『ヴァインの祝福』とタウンゼントの『境界線』があると訳者紹介にあるけれど、どれも批判的にとりあげたいものw


この本の売り文句に「科学者、<神>について考える」とあるように、前半は無神論者に対して神を信じることが論理的だということを、科学者としての自分の証をふまえながら書いている。その部分はそれほど問題に感じないのだけれど、後半部分は現代の最新科学の成果のもとに、聖書を解釈すべきという立場−ひとことで言えば有神論的進化論者の立場をアメリカの保守派クリスチャンにアピールし、薦めている。

 
はたして聖書の伝統的解釈を変えてしまわなければならないほど、彼の言う「科学的発見」は絶対的なものなのか、検証しようと思う。
(もちろん、伝統的解釈がすべて正しいとは限らず、間違っていることもある。ただ、その場合は聖書自身による証言−聖書釈義によってのみ訂正可能で、その他の方法はない。)
ちなみにここで言う「伝統的解釈」というのは、人は神によって直接造られたということ、また、罪によって死ぬようになった、ということ。「種類に従って」という創世記1章の記述もそうだが、結果的にこの二つを否定する進化論(大進化)には反対。


で、本文の検証だけれど、第4章「地球上の生命」の中で、おそらく最も保守派クリスチャンである「若い地球説」の立場をとる人を意識してこう書いている;

放射能や特定の同位元素の自然崩壊によって、地球上のさまざまな岩石の年代を決定できる、かなり正確でエレガントな方法が現れた。(中略)三つの放射線の化学元素が徐々に崩壊し、その半分が別の安定した元素に変わるのにかかる時間(半減期)を測定の基準とするのである。ウランは鉛に、カリウムはアルゴンに、ストロンチウムルビジウムという珍しい元素に変わっていく(中略)この三つの独立した方法はすべて、地球の年齢に関して驚くほど一致した結果を出しており、だいたい45億5000万年と言われている。誤差の範囲はわずか1パーセントほどである。(p.87)

科学の最先端にいることをを自負する著者が、最近書いた本の中で年代測定に関して「エレガントな方法が現れた」て、どんな方法?と期待させるが、ありきたりな方法論が簡単に書かれているのみ。そしてその方法から得られた45億年をもとにして、地球誕生後の様子やその後生物が発生し、単細胞生物から多様な生物に進化したのだろうと推測して書いている。
私個人の立場としては、はっきりと若い地球説の立場にあるわけではないけれど、これをたいした根拠もないのに否定する立場を否定する。
で、ここでは年代測定の問題で、私も10年以上ネット上で様々な立場の人と議論してきたので、当然このことも多く議論してきた。
この「エレガントな方法」は、彼が言うように、本当に「かなり正確」な数値を出せるのだろうか。
以下は小海キリスト教会の牧師、水草修治氏の文だけれど、このことについてとてもわかりやすくまとめられているので紹介する。

「ここに燃えているローソクがあり、長さは5センチメートルである。さてこのローソクは何分燃えていたのだろうか? ただしこのローソクは毎分5 ミリメートル消費するものとする。」この問題に答えることができるだろうか。できるわけがない。点火する前のローソクの長さがわからないからである。
示準化石によっては、地質の古さの相対年代しかわからないだろうが、放射性同位元素による絶対年代の測定方法があるではないかと思う人がいるだろう。放射性同位元素による年代測定とはどのようなものか。放射性物質は長期間に、原子が崩壊して半分が安定した状態になるのに要する時間が一定であるという仮説に基づいて考案された測定法である。ウラニウム− 鉛法、カリウム− アルゴン法、炭素14法などが代表的なものである。たとえばウラニウム238は半分鉛206になるのに45億年かかるという。
では、ここに50パーセントがウランで50パーセントは鉛という岩石があるとすると、この岩石の年代は何年になるだろうか? ・・・
ローソクの場合と同じで、実は、これでは計算のしようがない。最初にこの岩石の中でウラニウムと鉛が占める割合が不明であるからである。
しかもウランのような放射性同位体による絶対年代の測定は、堆積岩には用いることができない。堆積岩は火成岩が材料となってできているためである。堆積岩は火成岩をはじめとするいろいろな岩石が風化や侵食を受けてできた土砂が固まってできたものである。だから堆積岩のなかにかりに放射性同位体を含む鉱物があっても、その鉱物は、堆積岩が形成される前にすでにできていたものだ。だから、それをもとにして年代測定をしても、堆積岩ができた時期ということにはならないからである。したがって地質学時代の年代測定にウラン、カリウムなどは使用できない。−−(今村峯雄『年代をはかる (はかるシリーズ)日本規格協会1991、p4,p14)。
(中略)だから結局、百万年を単位とする地質学柱状図の年代は放射性同位元素によって測定した「絶対年代」ではないわけだ。それにもかかわらず、地質学柱状図には、もっともらしく百万年を単位として何億年というような数字が「絶対年代」と称して書かれている。何百万年、何億年などというのは、実際は進化論者が斉一説を前提として「進化にはまあこれくらいの年数がかかるだろう」という推測しただけの主観の産物にすぎない。
(第3章 地質年代の年代測定 3.放射線同位元素による測定)

この文章の中にある「斉一説」というのは、今の地球の状態が、昔から基本的に変わっていない、という考え。
以下の本は年代測定の炭素14測定法に限ったものだけれど、それは他の放射年代測定にもあてはまると思うので、そのレビューを載せておく。

この本から分かることは、過去の遺物の「年代」を特定するということは、ある装置に遺物を放り込み、ボタンをぽんと押せば簡単に間違いなくデーターが出てくる、と言うほど簡単な事ではなく、いろいろな推測と細かいデーター補正によって、学者は、何とか「それらしい」データーを「作り上げている」に過ぎない、ということかもしれません。
そもそも、炭素14測定法が機能するためには、大気中の炭素14の量が、ずっと一定であった、ということに対する「信仰」が必要です。
何かの事で、それが狂うと、すべてのデーターが狂います。
そして、大気中の炭素14量が、必ずしも歴史を通じていつも一定で有ったわけではないことも既に事実として分かっています。
この本は、1945年、すなわち最初の原子爆弾が炸裂して以降の大気中の炭素14量は、大きく跳ね上がり、1945年以降の「遺物」には、炭素14測定法は使えない状態であることを明示しています。
また、産業革命以来の炭素排出量の激増によっても炭素14量は増えており、その補正も難しいところのようです。
そういう、我々が「当たり前」にスルーしている学問の基本的部分の信頼性について本当のことを知りたい方には、この本はとっかかりとしては最善かもしれません。
(『年代測定 (大英博物館双書―古代を解き明かす)』レビュー。)