自然と恩恵の二元論と信仰一元論

このブログでは、科学哲学を少し紹介しながら、科学というものが通常信じられているように「中立的で客観的データをもとに、累積して進歩していくもの」でなく、それぞれの時代の思想に影響された、主観的いわば”信仰”だ、ということを示そうとしてきた(それにはもうちょっと科学哲学を紹介する必要あるけれど)。


そして、その科学の前提になっている「思想」というのは、村上陽一郎も指摘するように、現代においてはキリスト教・聖書が語る幼稚で頑迷な暗さ(蒙)を、人間理性の光によって明るく(啓)しようという啓蒙思想


もし現代科学、現代文明・文化が、そのような反キリスト思想を根底にして築かれたものなら、私たちはこれらが生み出してきた恩恵を捨て、アーミッシュのような原始的生活をすべきなんだろうか。


もし、私がそう考えているなら、供給された電気によって動くPCに向かい、無線LANを使ってブログに書き込んだりはしない:p


前回、現代のキリスト者は魂の救いのことに関しては聖書を用いるが、その他日常生活に関わる一切のことは、聖書以外から教えられた価値観で判断する、という内容の引用を載せたが、春名も、ステパノ・フランクリン*1という東京基督教学園の学長だった人も、そのような考え方について「二元論」あるいは「二王国論」と表現している。
救いのことに関しては聖書に書かれているが、それ以外のこと、日常生活を送るうえでは、聖書を読んでも何の足しにもならない、と考えることである。


それに対し、信仰一元論という考え方がある。『思想の宗教的前提』という本の中に、これについて説明しているので、以下に抜粋する。

異教哲学の誤謬を拒否することが、理性機能そのものを排撃することと混同され、信仰が地上的事象の認識や行為、地上的歩みとしての文化や労働の中に具体化される道が閉ざされてしまって、修道院的隠遁主義かアコスミズム(無世界論)かあるいは地上的歩みの中に信仰を論証的機能と無媒介に持ち込む狂熱主義となる。(p5)



反理知主義。論理よりフィーリング、教理より賛美、「考えるな感じろ!」的な現代にはぴったりな信仰一元論。実質的には聖書の知識が浅いので、この世の価値観を持ちながらの熱狂主義が多いのじゃないかと思う。


この信仰一元論の代表者としてあげられるのが、三位一体論の(ややこしいか)テルトゥリアヌスである。
彼は「アテネエルサレムは何のかかわりがあるか」と語って、アテネ(理性)とエルサレム(啓示)の関係を拒否して、晩年にはモンタヌス運動に加わったそう。


これについて、前掲書の引用をもう少し。

この世の思想に含まれる真理契機、政治、文化などの一般恩恵に支えられる相対的善に属する事柄、この世の種々の領域における信仰の具体化としての営み、それらを聖書の立場からどのように位置付け、批判し、またどう関係するかという論証の道は閉ざされて、信仰は次第に内面化して、聖書を体系的合理的真理として追究する教義学的熱心も成立せず、その信仰は専ら個人の内面性と主体性とにのみかかわる実存的真理となり、主観的敬虔主義となる。(p7)



じゃあ、何が正解かというと、理性を否定してしまうのでなく、非再生理性を否定し、再生理性を用いること。これには御言葉と御霊がなくてはならない。これについて、なんのこっちゃという感じだと思うので、次回に書こうとおもうけれど、このことについて最近の日本の福音派について思うことを最後に書いておく。


最近の日本の保守派・福音派は、アメリカの反保守・反福音派の動きにまねようとしているんじゃないだろうか。
日本の福音派は「ブッシュなんか支援するか!戦争断固反対だ!アメリカの福音派と一緒にするな!」と全くその通りの主張をしているのだけれど、それと共に「アメリ福音派のような、幼稚な反理知主義とはちがう!」と言うついでに「もっと理性的に、科学的成果を受け入れるべき」と、この再生者と非再生者の理性の対立を考えずに、対話とか言い出してないかなぁ。。


(参考 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100811/p1 )



*1:キリスト者は誤った二元論−日曜日には霊的生活をして月曜日以降は労働生活をといった二元論」「私たちの多くは、イエスの生涯と教えが私たちの日常の働きや、裁判所、市場、実験室、あるいは社会全体とはあまり関係がないように思っていることを認めざるをえません。これはキリスト仮現論とグノーシス主義と呼ばれる2つの異端の近代版といえるでしょう。これらの異端説によると、一方には、聖霊と宗教の汚れのない世界があり、そこではイエスが救い主であり主です。しかし他方には、神とはまったく関係のない事物や日々の生活のことがらの汚れた世界があり、そこではイエスは救い主でもなければ主でもないと考えるのです。教会はまさに、こうした異端説に反駁するために創造の教理を体系化しました」(ステパノ・フランクリン『キリスト教世界観とリベラルアーツ』p7.8)

キリスト者の世界観

「神のこと、人間の救いのことについて正統的理解を持っていても、会社のことや子供の教育のこと、男性と女性の地位と役割、性倫理や生命倫理、科学や技術、学問や芸術、などの事がらについては無神論的(実は異教的)学校教育やテレビ・ジャーナリズムなどから知らず知らず教えられた物の見方で判断する『文化融合』*1を起こしています。」


「『地上的事物』*2と呼んで大切にしたこれら被造世界の事がらを考える時にも、私たちは神中心に有神論の見方を貫かなければならない筈です。エンカルチュレーション*3を起こしている場合、私たちは知らず知らず二元論に陥っている、知らず知らず、神の主権の及ばない領域を認めてしまっているのです。理念においては有神論者で、『生き方』においてはモダニストかポスト・モダニストになっています。もし、事態がそのようになれば、教会外の人が教会員を見た場合、『生き方』においてこの世の人と何の相違もなく、何の証しにもならないわけです。」


「これには近代神学にも責任の一端があります。近代神学は近代哲学の『自然と自由の二元論』の影響を受けて、地上的事象や宇宙的事物の知識を人間の自立的知性や近代科学にまかせてしまい、自らは人間の魂の救いの事がらだけに閉じこもり、カルヴァンのいう『天上的事柄』だけに領域を自己限定してしまいました。神学は救済論となり、創造論を忘れてしまった」


「全領域における神の主権を承認して、有神論が『地上的事象』や『宇宙的事物』を見る視点にまで、さらに『生き方』にまで貫徹されなければならないのです。有神論が文化の形態となって日常生活に定着しなければなりません。」


『恩恵の光と自然の光』(春名純人;聖恵授産所出版部 、2003、p14,15)

(*1「文化融合」...世俗化のさらに進んだ段階)
(*2「地上的事物」...「会社のこと/教育/男性と・・」)
(*3「エンカルチュレーション」...文化融合のこと)

カインの末裔とセツの末裔

カインの末裔』というのは有島武郎の書いた有名な小説のタイトルになっている。有島武郎内村鑑三らの影響を受けて、一時信仰を持つが、ほどなく信仰から離れ、最終的には人妻と心中する。


。。カインというのは、アダムとエバの長男。人類初のこどもである。
エバがカインを産んだとき「私は、主によってひとりの男子を得た」と言っているが、この「得た」がカイン「得る(カーナー)」の意味である。


Cassutoという、ユダヤ人の創世記注解者の第一人者がいるが、彼は、このエバの言葉を、「私は主と同じように、男子を作った」の意味であると考えている(ヘブル語 et adnai が論点)。
この「男子」(イシュ)は青年男子に使うことばで、こどもには使わない。これは、アダムが助け手として女性を与えられたとき、「男(イシュ)からとられたからこれを女(イシャ)と名付けよう」と語ったことに対応していると思われる。
Cassutoが正しければ、エバは神に対し、あるいはアダムに対して、自分が劣っていないこと−自分が神と同じように、ひとりの男を生み出した、という自負心を、この言葉は表していることになる(罪を犯した後のエバに対して、神は「夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する」と宣言し、夫婦関係のバランスが崩れることを語っているが、この背景もカインを産んだときのエバの心境を理解する助けになると思う)。


いずれにしてもエバは、神から「与えられた」と言うのでなく、「私は得た」(カニティ)と語っている。


それに対して、次男のアベルに関しては、「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ」ととても簡潔に書かれるのみで、エバの言葉も何も書かれていない。


アベルは「霧」「息」などの意味で、非常にはかないことを表す言葉。伝道者の書にある「空の空」もアベル


アベルは神に対して非常に敬虔だったが、自分よりもアベルが神に認められたことで、カインは怒りアベルを殺してしまう。
そして、カインはその罪のためにその地を追放される。




その後、エバは三男を出産する。「彼女は男の子を産み、その子をセツとと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから」(創世記4:25)
セツは、「授けられた」と語られているように、「備える」「置く」という意味。
カインの時と違い、三男は神に備えられたと、神の主権をエバは認めている。


その後、創世記5章にこのセツの系図が書かれているが、これは実は4章17節にはじまるカインの系図との対応関係がある。

<カインの系図

カイン−妻
    ↓
   エノク−妻
       ↓
      イラデ−妻
          ↓
        メフヤエル−妻
               ↓
            メトシャエル−妻
                    ↓
           妻(アダ)− レメク − 妻(ツィラ)
                 ↓      ↓
            ヤバル/ユバル  トバル・カイン/ナアマ



カインは町を立て、その町の名を自分の子にちなんでエノクと付ける。エノクの意味は「献身」。この系図の人物が、文化発展に献身したことを象徴しているよう。当時の町の定義は、壁・城壁で守られた場所。その他「天幕に住む者の先祖」「家畜を飼う者の先祖」(ヤバル)、「立琴と笛を巧みに奏する者の先祖」(ユバル)、「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋」(トバル・カイン)と、文化・文明の発展の祖であることがわかる。
レメクの4人の子供のうち、ヤバル/ユバル/トバル・カインの三人は、ユブルという一つのヘブル語の言葉から派生している。ユブルは「生産する、生み出す」の意味。
その中でも「トバル・カイン」と名づけたのは、カインの暴力的性格を受け継ぎ、それ以上の者となることを期待してと考えられる。


レメクが二人の妻を持ち、その妻たちに「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と、神の報復以上の報復を、自分の力によって与えると語り、暴力によって解決するカインの罪を増長させている。
このカインの系図は、神なしに、いかに人間が力強く、楽しく生きていくか、その文化形成・発展が書かれている
(文化・文明がすべて悪だとは言わないが、神の栄光を表すべき人の能力〔一般恩寵〕を、神を排除するために用いるのが人間の現実・罪の性質であると考える − 現代の諸学問(心理学・歴史学・その他諸科学)に通じる)。
この意味で、現代の私たちも”カインの末裔”である。
結果的に、この後の洪水によって、その文化・文明とともに滅ぼされることになる。


<セツの系図

 セツ−妻
    ↓
   エノシュ−妻
        ↓
       ケナン−妻
           ↓
        マハラルエル−妻
                 ↓
                エレデ−妻
                    ↓
                   エノク−妻
                       ↓
                     メトシェラ−妻
                           ↓
                           ノア−妻
                              ↓
                          セム/ハム/ヤペテ

セツの子エノシュの名前は「弱い人間」を表す言葉。
詩篇9篇20節「主よ。彼らに恐れを起こさせてください。 おのれが、ただ、人間にすぎないことを」
詩篇103篇15節「人の齢(よわい)は草のごとく、その栄えは野の花にひとしい」
この詩篇の中の「人間」「人」がヘブル語で「エノシュ」。
このとき、「人々は主の御名によって祈ることを始めた」(4:26)というのも、カインの系図と対照的に、自らの力でなく、神に頼る姿を示している。


セツの系図にも、「エノク」が登場する。しかし、カインの子とは違い、「神とともに歩む」(5:24)ことに献身的だったのだろう。
アダムから数えて、カインの系譜7代目は神から最も離れたレメク。それに対して、セツの系譜7代目は、神とともに歩んだエノク。レメクは自分の死を恐れて、自分を傷つける者には77倍の復讐をする、と語ったが、死をまぬがれることは出来ず、神と共に歩んだエノクは死を見ることがなかった。



。。長文となってしまった。
この二つの系図から、今の時代を見、また、自分の姿を顧みることが出来る人はさいわいだと思う。。

創世記1章と2章の構造

前回の記事で、創世記の中に見られる構造(同心円構造の他に細かく言えば、並行法・交差並行法など、多くの修辞技法がある)について書いたが、肝心の1章と2章についての構造関係について簡単に以下に書いてみる。


<1章>
A 神が天と地を創造
 B 地は何もなく、水だけがあった。
  C 世界の創造−最後に人の創造 
   D 神の人への命令(増えよ;地を従えよ)
    E 人の必要を備える(食物)
     F 創造の完成と完全な状態(非常に良かった)


<2章>
A`神が地と天を創造
 B`地は何もなく、水だけがあった。
  C`エデンの設定−最初に人の創造
   D`神の人への命令(善悪の木からはとるな)
    E`人の必要を備える(助け手としての女性)
     F`創造の完成と完全な状態(恥ずかしいと思わなかった)


(以下、詳細を書いている途中で変なところをクリックしてしまい、全部消えたorz..)


。。上の図(?)は、1章と2章に対応関係があることを簡単に示したもの。その詳細な例として、2章4節の分析をヘブル語を一語一語説明して書いたのだけど、自己満足的だったのでやめた。


書いた内容は、2章4節は1章のはじめを繰り返すことで、そのテーマの終わりを示し(inclusio)、同時に交差並行法(キアスムス)をとりながら、別のテーマのはじまりを示している(焦点移行)、というもの。
わかりやすく言うと、1章は天と地の創造について書かれている。1章1節の「天と地」というのも、ヘブル語用法の「メリスムス」といい、対極にあるものを並べることで、その中のすべてを示す用法。
つまり創世記1章には全宇宙の創造について書かれ、それが人の創造に集約されている(「さあ人を造ろう」(26)は、それまでの創造が人のために準備されていたことを示唆)。
そして、2章では、全宇宙の創造から、焦点が「地」に絞られ、さらに「人」の創造に絞られて書かれている。
それは、1章全体としては全宇宙の創造がテーマでありつつ、人の創造がクライマックスだったことに対応し、
今度は、1章でのクライマックスだった人に焦点が当てられ、人の創造に関して2章で詳細に取り上げられ書かれている(scope change)。


。。すこし投げやりな書き方になってしまったかも。


ここで言いたいことは、創世記は先日書いたような綿密な(こまかく書けば、もっと緻密)構造を持っていたように、1章2章の部分に関しても、対応構造(調和)を持ちつつ、テーマを移して書いている、ということ。
現代人が、時間的に一直線に読むと「おかしい」「矛盾」に見えるだけ。
「二つの一致しない創造物語がある」のではなく、非常に計算された美しい創造の記録であることが、少しは見えてきたでしょうか。。

有神論的進化論反対の理由

ここで、なぜ有神論的進化論("theistic evolution"進化論を神が導いたという説)を受け入れることが出来ないと考えるのか、以下に理由を上げて整理してみる。


1.聖書の証言に反している。


・有神論進化論(以下「有進」)の立場では、人は進化した結果なので、いつから人と明確に言うことは出来ない。だから、アダムがはじめの人とは受け入れず、実在の人物だったとは考えていない。


→創世記には明確に、動物とは別に、神が、神のかたちとして人を形作ったことが、その経緯・詳細と共に書かれている。そのアダムが130歳で三男セツをもうけ、その後800年生き、930歳で死んだ(5:3ff)、と書かれていることも、偽りだということになる。


福音書において、その証言を否定することになり、パウロの手紙においては、アダムが実在しなければ、論理が成り立たない。


a)ルカによるイエス系図(4:38)
・「・・・エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である」
b)パウロの手紙
・「ちょうどひとりの人(=アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、」(ローマ5:12)
・「死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じように罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。」(同5:14)
・「男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られた」(1コリント11:8)
・「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(同15:22)
・「第一の人(=アダム)は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人(=イエス)は天から出た者です」(同15:47)
・「アダムが初めに造られ、次にエバが造られた」(1テモテ2:13)


→「有進」は当然、女性がアダムのあばらから造られたなどと、ただのおとぎ話と考えるので、女性の存在、そして結婚の意味の根拠がなくなる。


「助け手を造ろう」「人から取ったあばら骨をひとりの女に造りあげ、その女を人のところに連れて来られた」「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び会い、ふたりは一体となるのである」(創世記2:18−24)


・さらに、イエスのことばを否定することになる。


「イエスは答えて言われた。『創造者は、初めから人を男と女に造って、【それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる】と言われたのです。それをあなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マタイ19:4ー6)




。。これで充分に思えるが、補足として他の理由もあげておく。


2.神論の問題


・神は何故はじめから完全な人の状態に造らずに、進化という方法をとらなければならなかったのか。完全な神が、不完全な状態を経由して、人を(あるいは動物を)造るだろうか。


3.神学的問題


・有進の場合、当然肉体の「死」は、神の造られた良いもの、と考える。アダムが罪を犯すずっと以前から、死は存在したと考えるから。しかし、上記にもあげたローマ5章14節前後には、明確に肉体の死について、それが罪に起因していることを書いている。
このことについてはイエスの肉体における復活と関わりがある。
(このことは重要なので、また別の機会に整理したいと思う)

創世記1章と2章の矛盾?

”ゲノム”の中でコリンズは、創世記1章と2章が「完全に一致しない二通りの話がある」ので、文字通りではない → 詩的で寓話的な記述である、と考えていた。
このことについて焦点を当てて考えてみる。


「創世記1章と2章には、別々の創造物語が書かれている」というのは、現代の主流派(聖書は科学・歴史とは関係なく、魂の救いのことのみ書かれているという立場)の神学校でも教えられ、そもそも1章と2章では、書かれた時代が違い、それが継ぎ合わされたのだから、ちぐはくなのは仕方ない、と考えられている。


二つの異なる創造物語が連続しているように見えるのは、現代人の目で、それも幼稚で単純な古代人が書いたかのように読んでいるから。


この聖書の読み方にしても、自分を上にして読むか、神のことばとしてへりくだりつつ受け止めるか、で全然見え方が違うと思う。
神のことばとして真剣に聖書に向き合うときに、その奥深さと美しさに、人の知恵を超えていると認めざるを得ないのではないか、とまで思う。
神のことばをどう受け止めるかは個々人にかかっているのだけれど、自分の出来る限りで、それを表現してみたいと思う。
そこで、まず創世記全体の構造から、1・2章の構造に絞っていき、その後で、その中で語られていることを考えてみたいと思う。。




<創世記の構造>


・創世記は10の「トールドット」(「経緯、歴史;系図」と訳される)で構成されている。


1.これは天と地が創造されたときの経緯(2:4)
2.これはアダムの歴史(5:1)
3.これはノアの歴史(6:9)
4.これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史(10:1)
5.これはセムの歴史(11:10)
6.これはテラの歴史(11:27)
7.これはアブラハムの子イシュマエルの歴史(25:12)
8.これはアブラハムの子イサクの歴史(25:19)
9.これはエサウの歴史(36:1)
10.これはヤコブの歴史(37:2)


 新改訳聖書は、上記の節を下にずらすことで示している。


・このうち、創造からアブラハムに至るまで、以下のような構造が見られる。


A 創造 <大水:かわいたところ現れる/種類に従い/神の祝福>(1:1-2:3)
 B 罪 <アダム。裸→裸を隠す/呪い>(2:4-3:24)
  C 義人の子孫 <カインがアベルを殺す:アベル子孫残せず>(4:1-16)
   D 罪人の子孫 <カインの子孫>(4:17-26)
    E セツとその子孫 <アダムからノアまでの10代の記録>(5:1-32)
     F 堕落 (6:1-4)
      G ノアの簡潔な紹介 (6:5-8)


A’再創造 <洪水:かわいたところ現れる/種類に従い/神の祝福> (6:9-9:19)
 B’罪 <ノア。裸→裸を隠す/呪い>(9:20-29)
  C’義人の子孫 <ヤペテの子孫>(10:1-5)
   D’罪人の子孫 <ハムの子孫>(10:6-20)
    E’セムとその子孫 <ノアからテラまでの10代の記録>(10:21-32)
     F’堕落 <バベルの塔>(11:1-9)
      G’アブラハムの簡潔な紹介 (11:27-32)


→ 義(祝福)と罪(呪い)が交互になっていることも認められる。
上記のように、完全な重なりではないが、時間の流れを持ちつつ、対応関係のある構成をしていることがわかる。
このような構造が、こういった比較的大きな文章構造の中にも、あるいはごく小さな文・単語レベルでも認められる。
(ヘブル語の文法用語で同心円構造;並行法と言う。)


以前にノアの部分(上ではGとA’)における構造を調べたので、それも参考に以下に紹介する。


話題転換的紹介(6:9-10)
 A ノアと洪水前の状況(6:9-12)
  B 神による、地を滅ぼす宣告(6:13-22)
   C 乗船(7:1-5)
    D 洪水のはじめ(7:6-16)
     E 水が満ちる(7:17-24)
      X ノアを心にとめる神(8:1a)
     E’水が引く(8:1b-5)
    D’洪水のおわり(8:6-14)
   C’降船(8:15-19)
  B’神による、地を滅ぼさない宣言(8:20-22)
 A’ノアと洪水後の世界の状況(9:1-17)
話題転換的紹介(9:18-19)


この場合は、「X ノアを心にとめる神」の部分にピークがあり、最も著者が強調したかった部分だと考えられる。


以下は同じ箇所について、日数の関係を示したところ。


7日(洪水まで)7:4
  7日(洪水まで)7:10
    40日(洪水)7:17
      150日(水の増加)7:24
      150日(水の減少)8:3
    40日(待機)8:6
  7日(待機)8:10
7日(待機)8:12


さらに、短い文章の中に見られる構造の例が以下である。


17-20 「水かさが増した」
   21 「鳥・家畜・獣・地に群生するもの・人」死に絶えた
     22 「みな死んだ」
   23 「人・動物・はうもの・鳥」消し去られた
24   「水かさが増した」

この最後の短い文章における同心円構造が、1章と2章の構造を理解する助けとして分かり易いと思うのだけれど、
上記の21節、23節は順序が逆になっているが、だからと言って、これが別々の時代に書かれたと言う人はいないだろう。
むしろ、ひとりの著者が、その時代の用法で調和を持って書いた、ということに疑いはないと思う。


長くなったので、続きは次回に。
(構造を紹介するよりも、単純に『聖書セミナー No.13「創造と洪水」』(日本聖書協会、2006)の中の「三 人間の創造について −二つの創造物語?−」 http://www.bible.or.jp/library/lib05.html を紹介した方がよかったかも。真剣に知りたい方はこれを読むことをおすすめする。)

『ゲノムと聖書』批判(4)

なんだか批判ばかりしていて恵まれないので、今回でこの本の検証は最後にしようと思う。
最後は、この本の中で、聖書・特に創世記のはじめの部分についてどう解釈しているか、また、それに対する検証をする。


「創世記は本当は何を語っているのか」というサブタイトルにはじまる箇所から(p145〜)。

(創世記1章と2章の内容を簡単に紹介した後)・・もし文字通りであるなら、なぜ完全に一致しない二通りの話があるのか。これは詩的で寓話的な記述なのか、それとも文字通りに記された歴史なのだろうか。(146)



このように語り、その解釈を判定するために、啓蒙思想に影響されていない時代の解釈を、ということで、アウグスティヌスの創世記注解を紹介する。
(「寓話的」というのは、おそらくアレゴリーの訳だろう。比喩的、象徴的で歴史の事実とは関係がないということ)
私も昔解釈学の授業の中でレポートとして取り上げて、予想以上に悪くないことを覚えているが、創世記を釈義するのに紀元400年前後のアウグスティヌスだけ、というのはいくらなんでもあり得ない。


。。そして、アウグスティヌスのことばを引用して、結論している。

最終的に、アウグスティヌスは「ここで言及されている『日』とはどういう日なのか、それを理解することは非常に難しく、恐らく我々には不可能なのだろう」と書いている。また、創世記の妥当な解釈は、恐らく何通りもあるだろうとも認めている。(147,8)

彼が言いたいことは、創世記の解釈は絶対的なものはない、ということ、だから、そのような確かでない聖書の一つの解釈ではなく、それよりも確かな科学の主張を受け入れるべきだ、ということ。

25世紀にもわたる論争にもかかわらず、創世記の1章と2章がどういう意味で書き記されたのか、その意味を正確に知る人はいないと言って差し支えないだろう。

私がこの本に、最も問題と感じる部分はこのところ。
人間理性・神を必要としない人の知恵によって、神のことばを無にしているところだ。この本全体は、この基調で貫かれている。


神に反逆する霊−サタンは、「神は、ほんとうに言われたのですか」(創世記3:1)と人に対して今も語りかけ、神のことばは絶対ではない、とそそのかしている。神のことばでなく、他の、真実らしいものに、目をそらせようとする。


この「創世記は本当は何を語っているのか」というサブタイトルの著者の結論は、「よくわからない」「今後もわからない」ということ。。




。。長くなったので、次回に創世記1,2章が明確に語っていることについて書こうと思う。